心は選択して分類するための自由意志をもっていて、おもにいわゆる生命の物質的または結果的な面をもっています。心による判断は心といぅものを作り上げている諸感覚器官を通じておこるのであって、このために個性または自我が存在するわけです。こうしてつくり出されるものには終わりというものがあります。(肉体の心)
イエスや他の偉大な救世主たちは次のようなことをいっています。「肉体の心はほろぶべきものである」と。しかし肉体の心も意識をもっていて、これが人間の第三番目の部分です。心の感受力はこの意識にたいして敏感になっていて、その意識がなければ心は機能を発揮することができません。ところがこの意識は心の感受力がなくても作用することができます。これが意味するところは心に感じを与える意識なるものは実際には"宇宙の意識"であるということです。
肉体の感覚器官のもつ心にとっての大きな目的は、上記のことに気づいて心それ自体を全包容的な意識にゆずり渡すことにあります。ここでは好き嫌いや区別の法則はもはや存在することはなくて、肉体の心は"宇宙の意識"と一体化します。もはや「私の意志がなされるのではなくて創造者の意志がおこなわれる」からです。
キリストの真実の精神が内部に生まれるのはそのときです。キリストという言葉は、一つの個体を通じてあらわれた、全体のなかの一個の小片として"宇宙の意識"から引き出されたものです。だからイエスは次のようにいいました。「私はあなたがたにミルクを飲ませるが肉は与えない。あなたがたはキリスト(救世主)に抱かれた赤ん坊だからだ」
神のほんとうの息子または娘とはこの"宇宙の意識"なのであって、それは万物を支えている生命であり力でもあるのです。それは永遠の個人です。ひとたびわれわれがそれを知ってそれのもとに生きるならば「自分と父とは一体である」ということができます。これが生命の目的なのであって、そうなると一体化が感じられ、表現されて、こんにち見られるような分離というものはもはや感じられません。
個人としてのイエスが"父"と一体化したのはキリストを通じることによりました。結果の世界においてわれわれが道に迷ってしまった場所からわれわれをもとの家に帰させるのはキリストなるこの意識です。しかるに人間は結果のすべてを支えている因のかわりにこの"結果"を崇拝するようになっています。人間は一つの固定した現われと化していて、その場合、本性として宇宙的であるかわりに個性が有勢となっています。そのために人間はたがいに快・不快の影響を与え合っていて、永遠の平和を知ることはありません。 平和というものは個人の意識が宇宙的になるときにのみ見いだされるものなのです。
"宇宙の意識"のなかには好き嫌いや区別はありません。あらゆる現象は始めも終わりもない全体の一部でのるからです。"宇宙の意識"は現象すべての両親です。もっとよく理解できるように例を示すことにしましょう。心は人間をつくり出すことができるでしょうか。できはしません! それでは人間の体内に人間をつくり出して、しかも人間の心の干渉なしにそれを完全な形に仕上げるのはいったい何でしょうか。
母親は自身の体内に創造がおこなわれつつあることを知っていますが、彼女の心はそれがどんなふうにして達成されるのかを知りはしません。ただおこなわれていることを知っているにすぎません。意識である創造者が母親にたいして彼女の体内に創造がおこなわれていることを意識的に警告するのです。彼女の心は何が発生しているのかを知らないかもしれませんが、内部の意識は知っています。なぜならそれは"万物を知る者"と一体であるからです。
人間の心は一片の草をもつくり出すことはできません。心がやれるのは世の中ばかりでなく心自体をも喜ばせるために、人間の過失の貯蔵に頼ることだけです。このことは"自我の意志"が、"神の意志"すなわち"宇宙の意志"になるまでは続きます。"宇宙的"及び"意識的意志"とは宇宙的な生命にたいする関心を意味します。それは自我の関心が優勢であるような個人的なものを意味するのではありません。
われわれは心または個性をただ失うためにのみその心または個性を吐き出してはなりません。そんなことをするかわりに、永遠の生命である"宇宙の意識"のなかへ個人の心を没入させるように努力すべきです。自身の(個人的な)生命を救おうとする者はそれを失うでしょう。"宇宙の意識"とはその永遠の生命です。
そのなかには恐怖は存在しません。"宇宙の意識"とは意識的な意識の意識的な知覚です。
(終わり) |