アダムスキーのコンタクト
アダムスキーは米カリフォルニア州パロマー・ガーデンズに住んでいたアマチュア天文家であった。1946年(昭和21年)に彼は自宅付近の山(パロマー山)の尾根の上空に停止している巨大な宇宙船を目撃し、このため彼は定期的なUFOの観測にかなりの時間をついやすようになった。
1947年8月に、彼と4人の観測者は約1時間のうちに184機のUFOが空中を横切って飛ぶのをかぞえたのである。この時期に発生した非常に多くの目撃とアダムスキーの名声のために、軍部の人たちが「自身の望遠鏡でUFOを撮影してくれ」と彼に依頼したという。
1951年までには500枚以上のUFO写真を撮影することに成功し、その仕事でUFO研究界ではすっかり有名になった。
各種の報告によれば、多数の円盤が米西部の東寄りの砂漠地帯に着陸しつつあるということだったので、もっと近接したコンタクトをしようとして、彼は1951年と52年に砂漠地帯へ多くの旅をした。
1952年11月20日、デザート・センター(地名)からアリゾナ州パーカー寄り10.2マイルの所で彼は一機の円盤とそのパイロットと最初のコンタクトを行ったのである。その円盤は着地した(訳注=厳密に言えば地上数フィートの空間に浮かび、円型翼の一部分のみが小さな丘に接触していた)、そして1人の人間がまもなく現れて、アダムスキーに「こちらへ来い」と手招きした。そして2人の会話で、相手の男は「われわれが地球へ来る目的の一つは核爆弾と放射性降下物に関係がある」と暗示した。
この小型機を目撃する前に、アダムスキーと他の3名の仲間はもっと大きな円筒型の宇宙船を見ていたのである(訳注=3名ではなく実際は6名)。宇宙から来た訪問者は、小型機はその大きな宇宙船から降下したことをほのめかした。アダムスキーの3名の仲間はそのとき遠くに離れていて、会見が終わったときに彼が一同に合図をするのを待っていた。彼は、コンタクトが行われることになったら、1人だけがコンタクトするのが最上であろうと判断していたので、友人たちは別な場所で待っていたのである。
この最初の会見でアダムスキーは円盤には入らなかったが、外側からそれを注意深く観察することができた。目撃後1時間もたたないうちに宇宙から来た訪問者は行かねばならないと言い、それから円盤は離陸した。そこでアダムスキーは仲間に合図をした。彼らは訪問者の奇妙な足跡のスケッチをしたり石膏をとったりした。そして彼らはあとで『フェニックス・ガゼット』紙にその事件について報告したのである。
12月13日、一機の小型円盤が彼の家の上空に停止したので、彼はその写真を撮り続けた。円盤は30メートル以内に接近して、先の会見時にアダムスキーが相手の男に渡しておいたフィルムホルダーが円盤の丸窓から落とされた。あとでフィルムを現像してみると、その一枚には記号のような文字によるメッセージが写し込まれていたのである。
円盤と大母船に乗せられる
アダムスキーはその後小型円盤に乗って、地球表面から1万2千メートル上空に停止していた母船に乗ることを許された。それは乗組員の1人によると直径45メートル、長さが600メートルあるという。
中へ入ってから彼は長さ数マイルもあるもっと大きな母船の絵を見た。これは宇宙を旅する都市といえるものである。アダムスキーの乗った大母船は地球から8万キロの位置に出て行った。そして彼は丸窓の一つを通して見た光景を述べている。
彼は宇宙空間が完全に暗黒であることに気づいたけれども、しかし無数のホタル火が到る所にちらついていた。それらはあらゆる方向に動いており、多くの種類の色を帯びていて、まるで天空の巨大な花火大会ともいうべき光景であった。
異星人の案内によれば、その母船は電磁気といわれる自然界の力を応用したもので、常に途方もないパワーを持つという。この巨大なエネルギーは船体の外壁を透して短距離ながら空間に放射されるが、ときには数マイルも放射されることがある。このエネルギー・フィールドは保護物として作用し、絶えずパワーを放射しながら宇宙の粒子や岩層などを挑ね返す。多くの話し合いの後にアダムスキーは小型のスカウト・シップ(円盤)に乗って家へ帰らされた。
11カ月後、アダムスキーは再びコンタクトし、今度は科学的な分析用に研究所として用いられる別な母船へ乗せられる。この母船内の異星人たちは、多くの小さな無人円盤は彼らの研究用の資料を集めるために用いられるのだと説明する。大気のサンプルが絶えず集められ、核爆弾の実験を示す危険な放射性物質にたいする監視がされる。アダムスキーは宇宙塵の映像に関するテストの一つについて述べている。彼はスクリーンに絶えず微小な物質が渦巻くのを見る。微小物質がときどき現れては凝縮されて固体になり、次に消えて、ほとんど不可視な状態に返ってゆく。その構成物はときおり非常に希薄になるので、純粋なガスに変形するように見える。微粒子の固型化の構成とともに、ある量のエネルギーが可視的となり、固型化し、続いてすぐに爆発が生じて散乱するかまたは分解するのがスクリーンで見える。
別なグループの器械類は強度と構成を記録していた。他の粒子に反応するエネルギーと物質を含む物体の形成と崩壊のサイクルが絶えまなく続く。アダムスキーが気づいたのは、エネルギーが集積して平板状または雲のようなかたまりになると、それは空間でそれの近くにいるあらゆる物を妨げるということである。
彼は自分が全宇宙に遍満しているパワーを観察しているのだと信じた。このパワーから惑星や銀河系が形成されるのだ。しかもこのパワーが宇宙の生命体と活動とを支え、維持しているのである。異星人の案内者は、この同じパワーが宇宙空間で彼らの船体を推進させるのだとほのめかした。
月には大気、水、動植物、人間が存在する!
この特殊な訪問のあいだに宇宙船は月に接近して行き、アダムスキーの案内人が彼らの装置で示されるように月には大気があるのだと知らせる。そして空気というものは地球で言われているように他の天体を観測するのに通常は障害にはならないのだと語る。またときおり地球の科学者が見ている月面上空の雲の動く影についても話した。
さらに相手は、地球に面している側の月面にはごく薄い雲があるけれども、月の緑の向こう側の温暖な地域には地球の雲に似た厚い雲の活動を観測装置が示していると話す。相手は月のこちら例の面を地球の砂漠地帯にたとえて、温度は地球の科学者が信じているほどに暑くはないのだと言う。また、月の中心部には細長い土地があり、そこには植物、樹木、動物、人間などが存在していると述べた。
次にアダムスキーは母船の望遠鏡のような装置を用いて見た物を記述している。彼は地球人が月に関していかに誤った概念を持っているかを知って驚いた。クレーターの多くは山々で囲まれた大きな谷であることがわかった。そして月のこちら側にはかつて水が存在したにちがいないという確実な徴候を見ることができた。
案内人は、月の裏側にはまだ多量の水があり、こちら側の山々の中には隠された多くの水があると語る。また彼はクレーターを囲む山脈の側面に大昔の水路の跡があることを指摘し、アダムスキーも水の激しい流出によってつくられたと思われる深いスジが地面に残っているのに気づいた。彼は植物さえも見たし、地表をこまかな粉状の砂漠地帯と述べ、一方、他の地域は粗い砂または小さな砂利のような少し大きな物質からできていると言っている。彼が見つめていると、小さな4つ足の毛の生えた動物が、彼が観察していた地面を横切って走った。
1954年8月23日にアダムスキーは月に向かって再度の宇宙旅行に連れて行かれた。今度は大きな宇宙船を格納するために建設された大格納庫群がクレーター(複数)の底にあるのを見せられる。そして月面に降りる人間はそこの空気に馴れるために体内の減圧処置を受けねばならないと聞かされる。これは高地にまつわる不快感と低い気圧から身を守るために必要らしい。
一同が月の反対側に到達すると、案内者は低い斜面に生えた大森林のある、雪に覆われた山々を指さす。彼らは山地の湖や、大きな湖に注いでいる川などを観察する。渓谷や山の斜面には多くの集落があり、かなり大きな都市もある。案内者の言うところによると、格納庫(ドーム)類は都市の近くに建てられているが、これは月の鉱物と交換するために運ばれてくる食料品を降ろすのに都合がよいからだ。
ここで読者は、アダムスキーの体験なるものは、宇宙飛行士が初めて月に着陸するよりも十5年も前に発生したことを思い出すだろう。アダムスキーが観察した信じがたいほどの事物は、別なコンタクティーの体験が明るみに出たあとで評価されるだろう。
アダムスキーは真実を述べた
こうしたUFOコンタクティーたちの体験や観察した事柄を、ここで他の証拠に照らして考察することにしよう。アダムスキーが最初に母船に乗り込んだとき、彼は地球から8万キロ離れた位置で母船の丸窓から宇宙空間を観察した。そして宇宙が完全な暗黒であることに気づいた。
このことは第7章で述べたように、大気圏から上は肉眼で星を見ることは不可能だということを意味する。
またアダムスキーはホタル火現象を目撃し、ジョン・グレンが説明したのと同じように説明した。彼の宇宙旅行の話が真実でないというのなら、いったい彼はどのようにして1950年代の初めにこれを発見することができたのか? 次のことに注目するのは重要である。すなわち宇宙空間におけるホタル火効果を"塗料のかけら"と説明したNASAはおそらくでたらめを言っているのである。UFOは宇宙の岩層や過熱から船体を保護するために塗料などを用いないだろう。
アダムスキーが見たホタル火現象の激しさは、宇宙飛行士たちが見たホタル火現象よりもはるかに大きかったのだろう。彼が大母船の激烈なエネルギー・フィールドを通して宇宙空間を見ていたとすれば、これはうなずけるものがある。
次に案内者はアダムスキーが理解できるような言葉で、母船の推進源の性質について説明した。相手が言うには、船体のエネルギーはときとして短距離で空間に放射されるが、ときには数マイルも放射することもあるという。これは宇宙飛行士たちがUFOによって密接に接近されたとすれば、ホタル火現象を見ることになる理由の説明となる。UFOのエネルギー・フィールドはまたNASAの宇宙船に発生した無線の干渉やその他の電子器機の故障の理由ともなるのだ。
この第2回目の宇宙旅行でアダムスキーは、船体を推進しているのと同じエネルギーによって活性化されている宇宙塵を観察する。これらのエネルギー粒子は負電荷を帯びているらしい。そして光子を含んでいるのかもしれない。一般の宇宙塵は全面的にわずかな正電荷を持つので、負電荷のエネルギー粒子が宇宙塵に引き寄せられるのだろう。アダムスキーは宇宙塵粒子にこの負電荷が過度になるまで観察したのかもしれない。この時点でその宇宙塵粒子は、負電荷の粒子が急速に崩壊するために、爆発し消滅するらしい。このサイクルは繰り返される。これと同じような現象は科学者のヴィルヘルム・ライヒによって地球の大気中に少し観測されている。彼はその粒子をオルゴン・エネルギーと呼んだ。
実際に月へ行った者が実状を知っている
宇宙船が月に接近するにつれて、案内者は装置類が月の大気を記録していると説明する。また彼は大気というものは別な天体を観測するのに通常は障害にならないとも言う。この論点は本書の第7章に出ている。続いて異星人の案内者は雲の影を指摘するが、これは地球の天文家によって月の谷やクレーターで見られていたものだ。この雲はめったに濃密にならないが、暖かい地域では濃密になることもあると相手は説明する。しかも温度の上限は地球の科学者が予測するほどに高くはなく、植物、樹木、動物、人間などの存在する居住地域もあるという。
続いてアダムスキーはみずから眺め渡して、彼の月旅行が実際に発生しない限り、アメリカの宇宙開発以前にはまず知られることのないような光景について述べるのだ。彼は山々やクレーターなどに大昔の水流の跡を見るが、これは後にアポロ宇宙飛行士によって発見された。加うるに彼は地面に深いミゾがあるのを見て、過去の大きな水流によってできたものだろうと確信する。これと同じ結論はNASAが提供した証拠にもとづいて第8章で別個に掲げてある。
さらにアダムスキーは月面によってはキメのこまかい粉状に見える地帯もある一方、粗い砂や小さな砂利でできた別な地域もあると述べている。この点はニール・アームストロングによる静かの海の表面に関する説明とよく似ている。またアダムスキーはまばらに生えている植物や、毛の生えた4つ足の動物が彼の視野を横切って走るのを見ている。
1954年8月における月の裏側への旅でアダムスキーは巨大な宇宙船を収容するのに用いられる格納庫を見せられる。また月へ降り立つ人間は体内の減圧処置を受けるのだと聞かされる。これは月のくぼ地よりも実質的に気圧の低い高地で考えられることだ。
異星人の案内者は月の裏側の高い山々の峯に雪があることや、樹木、湖、川、多くの水のある地域などを指摘する。アダムスキーは谷や山の斜面にいろいろな大きさの集落があるのを見る。人間の住む一つの都市が目にはいるが、そこには人々や建物などがある。ここには着陸用の格納庫類があり、ここの人々は月の住人が採取する鉱物を食料品と交換するのだと案内者は説明する。NASAは月には地球にないような多くの金属類が豊富にあると結論づけている。加うるにジョージ・レナードはNASAの月面写真を分析して、月には人間が働いており、鉱物が採掘されているという証拠をあげている。どうやらジョージ・アダムスキーは地球の最も強力な望遠鏡で観察するよりも、月に関してはもっとはるかに多くの事柄を知っていたらしい。
彼の著書は1950年代の初めと中頃に書かれたもので、当時ソ連はまだ人工衛星を地球を回る軌道に打ち上げてもいなかった。彼が観察した事物は、彼が真実を語っていたという強力な証拠になっているのだ!
こうしたコンタクティーの観察は、宇宙開発活動によって得られた情報を分析した筆者の発見事を確証しているのである。彼らは理路整然とした矛盾のない情報を提倹したのだ。彼らの発見事は、自分が実際に月を訪れない限り、推測して述べることは困難だろう。アダムスキーの書物は地球人が初めて公式に月に着陸するよりも十年以上も前に出版されているので、彼の体験記はおそらく真実を述べたものであろう。
しかしUFOコンタクティーが提供した裏付けとなるような情報がなかったとしても、実際上の月の引力と大気に関する証拠は独自に存在するのである。
まだ多くの未解決の問題があるのだが、これは当然である。本書に提示されたテーマは、著者が新聞売場へ行って、そのすべてを容易に知り尽くすことができないほどに隠されてきた。
次章ではこれまでに出された情報やそれに付随する発見事などを応用して、月の歴史を述べることにしよう。この歴史は太陽系の他の多くの惑星にも関係があると思われるのである。
第12章へ続く |