本当のマヤ族
。こうした大洪水伝説は世界中の民族に残っている。なにかの太古の大変動をそれとなく伝えているらしい。そして中米へやって来た白人の一族がケツァルコアトルという王に率いられていたけれども、黒ずんだ皮膚の種族に侵略されたので、船に乗って太陽の昇る方向の遠い陸地へ逃げた、という意味のことが『ポポル・ブー』に述べられている。
以上で大体に判明するのは、ケツァルコアトルという名で遠い太古に中米へ住みついたムーの白人種こそ、古代マヤ帝国の最初の文明を築いた輝かしい民族ではなかったかということである。そして先古典期前期から後期にわたってグアテマラで曙光を見せ始めたいわゆるマヤ文明なるものは、はるか後代の別な人種によるものだとチャーチワードは言っている。
だがそれにしても、このいわゆるマヤ人は太古のマヤ帝国の文化をなんらかの方法で多少とも受けついだにちがいない。少なくとも栄光あるムー大陸のシンボルは伝えていたし、宇宙の法則である万物との一体化の精神を持ち続けたことは遺跡からみてうかがい知ることができるけれども、長期にわたる蛮族の侵略と影響をのがれることはできなかった。特に残忍きわまりないトルテカ族の支配下に入ったマヤ人は、生ける人間の胸を切り開いて心臓を取り出し、これを神に捧げるというほどに堕落してしまった。これは最も反宇宙的な行為である。
こうして過去に偉大な文明を誇ったムー帝国の宇宙哲学にもとづく高貴な精神は、はるか後世のユカタンの灼熱のジャングルからも永遠に消えうせたのである。
ムー大陸はなぜ海中に没したか? チャーチワードは地殻中の巨大なガスチェンバーの爆発説を唱えている。もっと飛躍した別の説によると、当時高度な科学を有していたアトランティス大陸との核戦争の結果だというのもある。そしてアトランティスも最後を共にしたというのだ。これもあながち荒唐無稽視するわけにはゆかない。一大文明が消滅して人間が原始の状態に返ることはあり得るだろう。
だが科学によると、1万数千年ないし2万年ぐらいを周期として地球の自転軸が急にかたむく、いわゆる地軸の傾斜現象が発生し、その際に世界的な大変動が起こるという。しかも現代の地球にもこの現象が接近していると説く学者もある。ムーやアトランティスの沈下もこれが原因となって海中に沈んだというのだ。これも言下に否定はできないだろう。人智を超えた大自然界には何が起こるか、わかったものではないからだ。
とにかくチャーチワードの大研究は後世にはかり知れぬ貴重な資料と知識を残してくれたが、オーソドックスの考古学界からは奇人として無視された。正規の考古学の教育を受けていないアマチュアだからというのが唯一の理由であった。
次にユカタンから目を転じて、メキシコ中部に残る古代のテオティワカンの大遺跡に推理の光を投げかけることにしよう。なぜならこの巨大なピラミッド群こそ太古に海底へ沈んだもうひとつの栄光ある大陸アトランティスの文明の流れをくむものではないかと考えられるからである。
壮大な古代都市テオティワカン
メキシコ市の北東51キロの肥沃な中央高原地帯へ行くと、古代の驚嘆すべき文化の名残りをとどめた一大センタ-が展開する。名付けてテオティワカン。なかでも人々の目を奪うのは、ひときわ雄大にそびえる「太陽のピラミッド」。高さ65メートル、底面の1辺は平均211メートル、体積は約百万立方メートルあり、百億万個の日干し煉瓦を積んで、その上に火山岩の破片を並べて粘土と石灰で固めたものである。
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▲テオティワカンに残る「太陽のピラミッド」 |
「太陽のピラミッド」の正面前には幅45メートル、長さ4キロもある敷石の「死者の大通り」が南北に走り、その両側には神殿や寺院などの廃嘘が並んで、北端には「太陽のピラミッド」よりも少し小さい「月のピラミッド」が優美な姿を見せている。南端には「シウダデラ(城塞)」といぅ名で統一される大建築群が巨大な壇の上に建てられている。神官の住居や神殿群が立ち並んだこの地域は祭紀センタ-の中心部であり、これより周囲20平方キロにわたって古代の大宗教都市が展開していたのである。 現代の都市計画にも劣らぬほどに整然としたこの巨大都市を太古に建設したのはだれか? 謎である。考古学によれば、この建築は紀元前2百年頃に起源し、紀元前後に完成したという。テオティワカン文明の最盛期は紀元2世紀から7世紀までで、人口は8万5千ないし十万と推定されている。
この雄大な都市国家も7世紀になって突如壊滅し、謎の民族はいずこへともなく姿を消した。14世紀初頭に流浪の民アステカ族がこの地へ足を踏み入れたとき、巨大な魔境の荘厳さに驚異の目をみはって叫んだ。「テオティワカン!(神々の都だ)」
そして天空に吃立する大ピラミッドを「太陽のピラミッド」、北方の優雅な構築物を「月のビラミッド」、南北に伸びる大通りを「死者の大通り」とロマンティックな名をつけたのである。しかし古代の謎の建設者がいかなる目的でこのような途方もない大建造物を建設したかは不明である。
7世紀の不思議な崩壊も原因は不可解だ。ただ遺跡に残っている焼跡からみて、侵略者の大軍により激烈な放火掠奪、徹底的な破壊が行われたことは想像に難くないが、その侵略軍の正体も不明なら、これほどの大都市を建設した種族が全くの無防備状能であったというのもうなずけない。強力な防衛軍を持たなかったのだろうか? 彼らは古代のマヤ人と同じく平和主義者だったのか?
現在の「太陽のビラミッド」は建設された当時そのままの形ではない。これは1910年のメキシコ独立百年祭にそなえて、考古学者のレオポルド・バトレスが復元作業を監督中、熱中のあまり原型をとどめぬほどに形を変えてしまった。もとは四層で、外部には全面に石が張られていたのである。これが現在は五層となっているのだが、高さや底辺などはオリジナルどおりである。しかし豪華な宮殿跡からは多数の出土品が発掘され、その彫刻などにより、雨の神トラロク、ケツァルコアトル(羽毛あるヘビ)、太陽の神、月の女神、年々生まれ変わる植物の象徴たるシぺ・トテクなど、さまざまの神が崇拝されたことが判明している。
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▲今も現地に住むマヤの末裔と呼ばれる人々。 |
ここで我々の目にとまるのがケツァルコアトルだ。先に述べたように、この羽毛あるヘビはムー大陸から伝えられたものとして古代のマヤ族が崇拝したシンボルであるとの説をムー大陸研究家ジエームズ・チャーチワードが出しており、これについてはかなり有力な証拠が残っている。
そうすると、テオティワカンの大文明を築いた謎の民族も、太古のムーの影響を受けたのかと思われるが、テオティワカンについてはむしろアトランティスとの関連を考える方が推測が容易となる。なぜなら、グアテマラやユカタン半島一帯の古代のマヤ遺跡に残るピラミッドと、テオティワカンのビラミッドとは築造様式が異なるために、同一文明とはみなしがたいからである。
マヤのピラミッドは石灰岩を積み重ねた表面に入念な上塗りは施されなかったが、テオティワカン古典期(紀元300年ー900年)の建築には一定のパターンがあって、建造物の内部には日干し煉瓦と小石を詰め、火山岩の割り石を粘土で固めて外面に張った上を、更に石灰のしっくいを塗ってなめらかにした。したがってピラミッドや各種建造物が完成しきった5ー6世紀の頃のテオティワカンは、白亜のピラミッドや殿堂がゴパン目に立ち並ぶ壮麗な大都市であったと思われる。
「太陽のピラミッド」の正面は、毎年夏至の日に太陽が沈む方角と一致することが実証されており、約10メートル四方の狭い平坦な頂上には、もと小さなワラぶきの神殿が建っていたという。ここで何かの儀式が行われたと思われるが、考古学上では全く不明である。しかし、昔ここに住んだ種族がきわめて平和な住民であり、特に太陽を崇拝していたことは否定できない。そしてケツァルコアトル(羽毛あるヘビ)は文化と知識の保護神としてあがめられ、それを祭神とする大神殿もあった。現在その建物は存在しないが、土台のピラミッドは残っている。
この壮大夜都市国家を築いた大昔の種族はどこから来た、いかなる人々であったのか? ケツァルコアトルを崇拝していた事実からみると、古代マヤの一派ではないかとも思われるが、そうでないフシもある。土地のインディオの伝説によれば、テオティワカンの住民の先祖は「タモアンチャン」と呼ばれる神秘的な国の人間が東北方のメキシコ湾の沿岸から来たという。東北方といえばユカタン一帯を意味することになる。そうすると単純に考えて、西方の太平洋岸ではない。ということはムー大陸の方角ではない。いわば大西洋側であり、アトランティスの方向である。だから太古に沈んだアトランティス人の子孫だ、と簡単に結論づけるわけにはゆかない。なにせアトランティスが沈下してから1万年以上も経過し、ムーが沈んでから1万2千年にもなるのだ。前にも述べたように、古典期のマヤ人が即ムー大陸人ではなく、わずかに大陸のシンボル類を伝えていたことを考えると、テオティワカン人も沈んだ両大陸とは直接関係のない、はるか後代の民族かもしれない。だがマヤ人にせよテオティワカン人にせよ遠い昔の偉大な文明の影響を受けることなしに、あれほどの文化を発展させたとは考えられない。エジプトの大ピラミッド群にしても、いわば何もない暗黒大陸に根から生えたように突如出現したのである。おそらく太古に失われた偉大な文化の残りが世界各地に流れて、新たな現文明の曙光となったのではないだろうか。そして、メキシコ一帯の古代文化はムーとアトランティスの文明の混交ではないかとも思われるのだ。ここでムー大陸と双璧をなすアトランティス大陸について言及しないわけにはゆかない。
第6話へ続く |