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  古代マヤの謎 第2話 

7つの謎と奇跡 1981年主婦の友社発行 より転載

話をもとにもどすことにしよう。このバレンケの大石棺の石蓋に彫つけられた絵模様を古代の宇宙飛行士だとみなしたデニケンの仮説は正しいか? 

マヤの十字架の謎 

大まちがいである。マヤの伝承によると、この絵の中心部にいる人物は女性なのであり、その下の台座は大地の神をあらわし、最上端に1羽の鳥が天空を象徴している。そして鳥の下には太い十字架が位置している。つまりこの女性は天空と大地をつなぐ仲介物たる十字架のもとで祈りを捧げているか、またはトランス状態で宇宙を賛美しているのだ。周囲に描かれた種々の神々は、”宇宙の創造パワー”をあらわすということになっているのである。

この見事な浮き彫りのなかで最大の謎は十字架である。西欧キリスト教文明の影響を受けたはずのない古代のマヤ人が、なぜこのような物を描いたのか? 

16世紀、エルナン・コルテスの率いる残忍なスペイン侵略軍がユカタンのマヤ遺跡を初めて目にしたとき、古い石に刻まれた奇妙な模様のなかに、しばしば十字架があるのを発見して、狂信的キリスト教徒であったスペイン人たちを不思議がらせ、喜ばせた。

そしてマヤ研究家のなかにはこれを原始キリスト教と関連づけようと試みた人が現れた。その代表的なのがキングズパロー卿ことエドワード・キングである。古代マヤ人とは失われたイスラエルの12支族のひとつなのだと信じた彼は、全財産をなげうって中米古代文化を探索し、9巻の大冊にまとめたが、不遇のうちに世を去った。彼のイスラエル説は現在正統考古学からは完全に黙殺されているが、そのぼう大な記録やスケッチ等はいまなお貴重な資料とされている。

▲「碑銘の神殿」から発見されたパ・カル王のヒスイの仮面。
▲「碑銘の神殿」から発見されたパ・カル王のヒスイの仮面。

生涯を古代マヤの研究に打ち込んで最後は印刷所への支払い不能のために入獄したキングの異常な情熱と努力には脱帽のほかないが、残念ながら彼は十字架の由来をキリスト教に限定していたのである。だがもともと十字架というシンボルはキリスト教の発明になるものではない。キリスト以前のはるか太古からこの地球上のある楽園で、宇宙の創造パワーをあらわすシンボルとして用いられていた。どこで? 

太平洋の失われた大陸ムーである。近代の考古学は出土品その他の残存証拠物を基盤とした”科学的”考証による研究法が主流をなしているために、伝説上の大陸などはいわば架空の存在として無視されるか、冷笑をあびるのが関の山だった。しかし20世紀になってから急速に発達した測定法その他の研究法により、遠い先史時代に地球のどこかに存在した偉大な文明に対する探求意欲が盛り上がり、2種類の大陸が脚光をあびてきた。ムーとアトランティスである。奇人・変人扱いにされながらこうした幻の大文明を研究した考古学者に、16世紀にユカタンを探索して悪名を残したスペイン人司教ディエゴ・デ・ラングの書いた『ユカタン事物記』を発見したブラシュール・ドゥ・ブールブール師、フランスのル・プロンジョン博士などがあり、これらはマヤ古代文明の源泉をアトランティス大陸に帰した人である。アトランティスについても多数の研究結果が残されているが、ここでは省略する。 

失われた大文明国・ムー大陸

しかしマヤの古代文明の源流はムー大陸の偉大な文明にあると考えて、この面で徹底的に探求を続けた先駆者がいる。イギリス陸軍の退役大佐ジェームズ・チャーチワードがその人で、1863年にインドで軍務に服していた頃、ヒンドゥー教の高僧から不思議な文字の記されたナーカルの粘土板を見せられて、それがムー大陸の聖典『聖なる霊感の書』の復刻であることを知り、以来50年にわたって世界各地の遺跡や碑文、古文書等をあさって、ムー大陸実在の証拠をつきとめたのである。彼の猛烈な執念と努力の結晶はついに数点のムー大陸研究書の発刊となったが、例によって考古学界からは無視された。かつてデニケンの奇想天外な推測が全世界に大旋風をまき起こした一方、チャーチワードのすばらしい業績が等閑に付されているのは惜しみてもあまりある。

さて、失われたムー大陸はどこにあったか? 彼の研究によると、それは太古、太平洋のハワイの北あたりから南のフィジー島、イースター島あたりに伸びていた東西8千キロ、南北5千キロにわたる広大な国土で、偉大な帝王ラ・ムーの指導下に6千4百万人の住民は十種族に分かれていたが、宇宙の法則のもとに調和した生活をし、ハスの花の咲く美しい楽園に巨大な神殿や宮殿を建設し、7つの大都市があって、高度夜文明の栄えた、輝く太陽の帝国であったという。

これを裏書きする傍証としてはメキシコの鉱物学者ウィリアム・ニーベンが集めたメキシコ石板のシンボル、ラング司教の焚書をのがれて後世に伝わった古代マヤ族の古記録『トロアノ古写本』、『コルテシアヌス古写本』、チベットの『ラサ記録』、その他かぞえきれぬほどの記録があり、遺跡に残された古記録としては古代マヤのウシュマル遺跡の「秘儀の神殿」の壁に刻まれたムー大陸の宇宙のシンボルが見られるし、「この神殿は我らの教義をもたらした西方の国ムーの崩壌を弔うために建立された」という碑文も残っている。

栄光に輝いた巨大な帝国ムーはいまを去る1万2千年の昔、突如発生した自然の大変動により海中に没したが、その前にムーから東西の新天地を求めて移民が雄飛した。その主流をなすものが太古のマヤ族であり、北・中南米に渡ったカラ・マヤ族、ビルマ、インドへ定住したナガ・マヤ族、中央アジアから中部ヨーロッパに大帝国を築いてアーリア民族の祖先となったウィグル・マヤ、その他がある。いずれも数万年も昔のことだ。したがってグアテマラからユカタンにかけて住んだマヤの歴史がわずか千数百年というのは、はるか後代の一部分にすぎず、実際は2万年以上続いたことは、チチェンイツアの遺跡でル・プロンジョン博士が発見した神官カイの墳墓の12頭ヘビの彫刻が、12王朝の統治期間たる1万8千年をあらわしていることからもわかるとチャーチワードは述べている。いずれにしても気の遠くなるような大昔からマヤ文明は続いてきたけれども、栄枯盛衰を繰り返し、その間、現代に残る壮大な石造建築物を造ったいわゆる前古典期や古典期のマヤ人は、精神文化ではむしろ退化して、遠い昔のムーなる祖国から伝えられた宇宙の法則を忘れ果てたけれども、わずかにシンボル類と、かすかな伝承とにその名残りをとどめた、ということになるらしい。そして、その輝かしいシンボルのひとつに十字架が伝えられていたのだ!

したがって、バレンケの「碑銘の神殿」の石棺の蓋に刻まれた十字架は古典期のマヤとムー大陸との関連を示す重要なカギであって、この意味を解くことが考古学上の先決問題なのだが、どうしたわけかマヤ関係の考古学専門書には、あの図柄に対する考察がほとんどなされていない。マヤ研究の権威マイケル・コウ博士の著書も言及してないのだ。

第3話へ続く

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