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| ルールドの奇跡 久保田 八郎 | |
| 第4章2部 ヌベールの修道院に入る |
| ヌベールはフランス中部の小都市である。いまならルールドから短時間で行けるけれども、スピードの遅い当時の汽車では、かなり時間がかかる。しかも途中、ボルドーに2泊し、6日にべリグーに1泊したので、7日の夜になってやっとヌベールに到着した。 |
8日には新参志願者として300名の修道女の前でルールドの聖母とのコンタクト(会見)の体験を話し、20日後の29日には修練者として着衣式に出席した。あこがれの黒衣の修道服を着た修道女になれたのだ。
ここでフォルカード司教はベルナデットにマリー・ベルナールという修道名を与えた。12世紀のクレルポーの聖ベルナールの名をとったのである。マリーは聖母マリアにあやかった名であることはいうまでもない。 ベルナデットの修道生活は比類なく立派なもので、修道女として模範的であった。規則正しい生活、沈黙を守ること、謙遜、単純、従順、忠実さなどは抜群であったと、シスター・ジョゼフ・カルデールは言っている。特に修道院では沈黙の時間というのがあったが、陽気なベルナデットはよくそれを守った。 病気、病気、病気 1866年の8月なかばから彼女はゼンソクがひどくなり、肺結核も進行していたので、病室へ入ることになった。かなり苦しそうな日が続いたけれども、つきそいの、シスターに心配をかけないように、まったく苦痛を訴えなかった。 10月末には容態が悪化して臨終が近づいていると思われたので、フォルカード司教が誓願を受けるためにやって来た。そばには病人が吐いた血でいっぱいになった洗面器が置いてあった。 司教が代読した誓願文というのは、「アーメン」というたった一言であった。ベルナデットはにっこり笑ってうなずく。だが彼女は死ななかった。またも健康が回復したのである。どうやらベルナデットの体は"健康"という勇者と"病気"という悪魔との果てしない闘いの舞台だったらしい。67年2月2日にはほぼ完全に回復して、またも修練院にもどって来た。
看護婦として献身の日々 1867年からベルナデットは看護婦に任命され、本部の病室付きとして働くことになった。他の同期の修道女たちは同年10月30日の誓願後、別の修道院へ行くように命じられたのだが、ベルナデットは何も特技がないという理由で、フォルカード司教の配慮により、ヌペールの愛徳会本部であるサンジルダール修道院に残されたのである。
だが実際は、名高いベルナデットが他の修道院へ行けば、称賛と好奇の日に満ちた多くの人からつけまわされるので、ひどい日にあわさせたくないという司教の思いやりによるものだった。 だいたい司教がベルナデットにヌベールへ行くことをすすめたのも人目をのがれるためであり、ベルナデットも逃避行と考えてヌベール行きを望んだのである。だからルールドの駅では泣かなかったのだ。むしろ、これで解放されるという安堵感に満ちていた。 そしてこんどは、病人の看護という大好きな仕事が与えられたので、彼女は喜んだ。ベルナデットはコマネズミのように働いた。小柄で子どもっぽい彼女は、一方では威厳をそなえていて、わがままを言う病人を一言のもとにだまらせたし、ふさぎこんでいる患者には独特なユーモアで笑わせて病室を明るくした。ベルナデットが使用した各種の薬ピンや看護用具などはいまもヌベールに残っている。 両親が死んだ日 1871年3月4日、最愛の娘をふたたび見ることなく、父親のフランソワ・スビルーが亡くなった。知らせを受けたベルナデットは壁にもたれて激しく泣いていた。気丈な彼女にも父親の死は深い悲しみをもたらしたのである。 それより5年前の66年12月8日、母のルイーズがすでに亡くなっていた。極貧と気苦労と9回にわたるお産で弱りはてた彼女は、41歳という若さでロウソクの火が消えるようにひっそりとこの世を去ったのである。 このときもベルナデットは激しく泣いた。嗚咽とゼンソクのせきがまじって、はたで見ていられなかったとシスターたちが言っている。 父親のフランソワは生き残った4人の子どものうち、とくに長女ベルナデットをかわいがり、娘がルールドの養育院にいたころは、なにかと理由をつけては会いに来てくれた。ルールド駅での別れまで、ベルナデットに向かって本気で怒ったことはなかった。生活能力にはとぼしかったが、心底から愛してくれた父親の死はベルナデットに大きなショックを与えて、またも寝こんでしまったのである。 神のようなべルナデット 1870年から2年たらずの間は、ベルナデットの体調もかなり回復した。だが72年の冬からまた悪くなって、いっときは臨終に近くなったことがある。翌年6月にはもうだめだと思われたが、ふしぎなことに、またも回復した。 29歳のとき、彼女は病室の責任者としてのつとめをはずされ、補助看護婦に格下げされてしまった。病弱を気づかってとられた処置だが、これはベルナデットにとってむしろつらいことだった。年下の看護婦の指図に従わねばならないからだ。しかし屈辱にはよく耐えて、一生懸命に働いた。
あるとき盲目の老修道女の体一面にひどい傷ができて、ウミがたまり、たくさんのウジがわいていた。この看護をさせられたジュリーというシスターは気持ちが悪くて手が出せなかったが、ベルナデットはていねいにウジをとってやり、きれいにふいて薬をつけてからやさしく包帯を巻いて、手厚く看護したのである。そしてジュリーを叱りつけた。 「どうしたの、あなたは。それでも愛徳会のシスターなの? 信仰はもたないの?」 この老婆は6月29日に死んだ。遺体に修道服を着せて処置をしたあと、ベルナデットは死人の頬に別れの接吻をした。ジュリーは気味わるがって、ためらっている。 「遺体にさわることもできないとはなんですか!」とベルナデットはどなった。 ベルナデットの強烈な信仰心と高貴な愛の構神を示すエピソードである。だが、ジュリーもすぐれた修道女であった。ベルナデットから叱責されたことを根にもたず、むしろ先輩の良き忠告として反省した。後にベルナデットの聖列調査のとき、心からの尊敬と喜びをもって語っている。 「ベルナデットはほんとうに神のような人でした」 貧しい人に奉仕を 31歳を迎えた1875年からベルナデットは体がひどく衰弱して、ほとんど寝たきりの生活となってしまった。だが、起きれるときは少しでも他人に奉仕をしようとして、たえず小さな親切を実行していた。 ルールドではたびたび洞窟に行きたいという衝動を感じたぐらいだから、他人の心を見ぬくテレパシーのような能力もあったのであろう。その敏感さは抜群であった。 いったいに人間には数種類のタイプがある。学校の成績はよくて、いわゆるアタマはよいけれども、態度がしゃんとしないで頼りないのもいるし、成績はふるわないが、気骨があり、しっかりしたのもいる。 ベルナデットは後者に属する女性だった。彼女が現代の日本の学校で教育を受ければ、成績はおそらく下の部類に入るだろうが、当時のフランスのカトリック信仰の世界では、そんな成額よりも信仰心が重要であり、「自分は何をやろうとしているか」の自覚を強くもつことが大切であった。 その意味で、ベルナデットは聖女の名に恥じぬ人であったといえるだろう。きびしいカトリックの教義や戒律に従いながら、自分の人生の目標に向かってまっしぐらに前進するのは、健康な修道女でも容易ではないのに、病苦であえぎながら彼女は完ぺきな聖母の使徒としてつとめをはたしたのである。 「貧しい人に奉仕をし、自分をささげなさい。どんなことがあってもけっして失望しないように。聖母マリアを心から愛しなさい」 これは仲のよかったシスター・ジュリーが74年7月14日、別な修道院の看護婦として出発するときに、ベルナデットが語った別れのことばである。 第4章3部へ続く |
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