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| ├ 写 真 |
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| ルールドの奇跡 久保田 八郎 | |
| 第3章2部 お金を嫌ったベルナデット |
| このころから、ベルナデットは精神的な苦痛を感じはじめていた。いまやすっかり有名人になった彼女は、大勢の熱狂的な信者につきまとわれて、行動の自由が保てなくなったのである。 |
お金をおいていこうとする人も少なくなかったが、ベルナデットはそのたびに押し返した。 「私はお金がほしくて洞窟へ行ったのではありません。罪人のつぐないをしたのです」と彼女は何度も説明する。 これは警察の謀略をのがれるのに役立った。警官が町民に変装してベルナデットに金を握らせようとしたからである。金集めでやっているのだとジャコメ署長は判断していた。 ベルナデットのお金嫌いは徹底しており、人が寄付として金を差し出すと、けがらわしい物を見るような目付でそれを投げ捨てることも何度かあった。このような潔癖な性格は天性といえるもので、およそ金銭欲や物質欲のない人間としてベルナデットの右に出る者はないとルシル叔母も言っている。 だがベルナデットが神のごとき純粋な精神の持ち主であったというわけではない。ときには悲観もし、いらいらしたり、苦しそうな表情を浮かべることもある。なにぶんにもまだ14歳の少女だ。おまけに、とくに頭がよいというわけでもないので、ひどく子どもっぽく見えることもあった。 しかしマッサビエユの洞窟は有名になり、いまや聖地と化して、だれが持ってきたのか白いマリア像が出現場所のほら穴に安置された。そして多数の人がロウソクを持参して燃やす習慣が生じた。これは美女のまぼろしがロウソクを持ってきて燃やすようにとベルナデットに頼んだからである。 無垢の受胎 20日間がすぎた3月24日の夕食後、「明日は洞窟へ行け」という内部からの印象を感じたべルナデットは、翌25日には、まだ陽も昇らぬうちに起きて洞窟へ向かった。きょうはあれに会えるという確信がわき起こって、見えない力にひっぱられるように歩いて行く。
こうした洞窟通いに両親が同行することはほとんどなかった。14歳の娘が暗いうちに1人で外出するのは危険なのだが、どうも両親は洞窟のできごとにあまりかかわろうとしなかった。だからベルナデットにはたいていの場合、母親の姉妹がつきそっていた。母の実家のカステロー家の姉妹たちも、ベルナデットを有名にしたいわば陰の功労者である。 この日、洞窟で祈りを終わると、例の美女がエントツ状の穴を通って降りてきて彼女に近づいてきた。こんどこそは名前を聞き出そう。ベルナデットはルールドの方言でていねいにたずねた。 「お願いです。あなたのお名前をお聞かせくださいませんでしょうか」 美女は微笑を浮かべてだまっている。ベルナデットは何度もたずねた。すると美女は急に微笑をやめて、それまで組んでいた両手を前方へ広げてのばしたあと、こんどは胸のところで両手を合わせて、空を見上げながら、世にも美しい声で言った。 「ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・コンセプシアウ!」 これはラテン語まじりのルールドの方言である。標準フランス語になおせば、「私は無垢の受胎です」という意味になる。 だが方言とはいえ、ベルナデットにはこの意味がわからない。奇妙な名前だと思いながらいそいで司祭館へ行き、ぺラマール神父にこのことを告げた。 神父はとびあがらんばかりに驚いた。美女というのは聖母マリアではないか!この無学な小娘が"無垢の受胎"ということばを知っているはずはない。とすると、洞窟に聖母マリアのまぼろしが出現するといううわさは事実だったのか―。ぺラマール神父は急に陶が熱くなってきた。そしてあとは何も言わずにべルナデットを帰してしまった。 だが、ベルナデットにはまだ美女のことばの意味がわからないので、夕方エストラート氏の家へ行って、同じ話をすると、氏も大いに驚いて、それは聖母マリアの別名なのだと説明してくれた。こうしてべルナデットが対面し続けた美女は聖母マリアのまぼろしだという説が決定的となったのである。一方、警察の弾圧も激しくなってきた。 4月6日の夕方、またもべルナデットは洞窟へ行きたいというテレパシーのような印象を感じた。そして翌7日の早朝、彼女は洞窟の前に来た。どこからかぎつけたのか、すでに1OOO人近い人が洞窟の周辺に集まっている。このときは美女が出現したが、会話の内容はわからない。だいたいべルナデットは、この女性と会ったときに長時間話し合った内容を、すべて他人にもらしているわけではない。いまだに謎の部分が多くあるのだ。 ベルナデットは祈りを続けながら、風でロウソクの火が消えないように手で防いでいたけれども、そのうち片手を直接火に当ててじっとしていた。驚いたのは群集である。 このときはドズー医師がそばにいて、彼女がまったくヤケドしなかった事実を確認している。
政府が弾圧をはじめた ベルナデットの事件はついにフランス政府の耳にはいった。迷信があまりにも拡がって憂慮すべき事態になったと判断した政府は、ルールドの警察に命じて、無許可で作られた礼拝所をつぶす作戦に出た。内務大臣の命令により、ルールドに近いタルブ市の県知事マッシ男爵がルールドの町に指示して、洞窟の泉水のくみ出しや柵内への立ち入りを禁止するという告示を6月1 5日に出したのである。 だが、すでにベルナデットを支持する敬虔な信者たちは洞窟の前を整備して聖地にしていたので、毎日大勢の人が参拝に来るし、ロウソクやその他の供え物もたくさん置かれるようになっていたのだ。 彼らは告示を見て怒った。たちまちデモを行って猛烈に抵抗し、洞窟前に設けられた立ち入禁止の柵を何度も破壊しり、柱や板を川に投げこんだりして、警官隊と衝突しそうになってきた。 婦人たちも石工のグループに味方して、あの手この手で警察に対抗したので、町はいまや流血の一歩手前という状態になってしまった。このころすでにベルナデットを強く支持していたベラマール神父は事態を心配し、人びとに説教をしてなだめた。一方、警察も意外にてごわい町民の抵抗にあって弾圧の手をゆるめた。そこでタルブのローランス司教が乗りだして、民衆にたいして警告を発したので、騒ぎは一応おさまってきた。 美女が最後に出現した日 そうこうするうちに夏となった。7月16日の夕方、洞窟へ来いという衝動を感じたベルナデットは、ルシル叔母と共に家を出て、マッサビエユに着いた。来てみると、洞窟の前には長い柵が張りめぐらされて立ち入り禁止となっている。そこで彼女はガープ川の対岸の草原へ行き、その場所にひざまずいて川向こうの洞窟にむかってロザリオの祈りを始めたのである。
このときも大勢の群集が来ていたが、みな静かにべルナデットを見つめている。やがてベルナデットは歓喜に満ちた表情で叫んだ。 「聖母さまが出現された!柵の上からほほえみながら、こちらを見ている!」 群集には何も見えない。夏の夕方の静寂な洞窟と無慈悲な白い柵が目にうつるだけだ。 ベルナデットはこのとき美女と何も会話をかわさなかった。無言で微笑しながら柵の方を見つめているだけである。そしてこれが最後の出現となった。 「きょうの聖母さまは最高に美しいお顔だった」とベルナデットはそこからの帰り途、ルシル叔母に語っている。 これが彼女の見た聖母(と思われるまぼろしの美女)の最後の姿であったが、熱狂的な信者たちのなかには、自分も聖母マリアを見たと言いだす者が少なからず出てきた。とくに子どもに多いのだ。しかし、これらはすぺて別の物体の見誤りか錯覚にすぎないものだった。 洞窟の柵がはずされた ベルナデットは、しだいに増える訪問客のために、人づきあいをわずらわしく思うようになってきた。まじめな人ならともか-く、からかい半分に近よって来るものもあるし、なかには金を出すから病気が治るようにマリアさまに頼んでくれと言う者もある。スピルー家の元牢屋の部屋へ無遠慮に入りこんで、金品をむりやりおこうとする者もあるので、善良な両親はこれらをことわるのがたいへんだった。ベルナデットでさえときには怒りだすことがあった。 そこでベルナデットはまた学校へ通いだした。学校へ行けばうるさい訪問客の束縛をのがれることができるのだ。 こうして6月3日には希望どおりに初聖体を拝領することができた。 7月に入ると、各地から社会的地位の高い人たちがべルナデットに会いに来た。モンペリエのティボー司教、フランス皇太子の家庭教師であるブルワ夫人、フランスの有名なカトリック新聞の記者ルイ・ビヨー氏らである。 いずれも、ベルナデットの純真さ、謙虚さ、比類ない正直な性格に感動し、とくにビヨー氏などは涙を浮かべて少女の高貴な精神をたたえた。だが、中には彼女をけなす新開もあった。 28日のパリの新開『ユニベル』にはベルナデットの記事が大きく掲載されたため、彼女の体験はフランス全土に鳴り響いた。そしてついに1858年10月5日には、ルールドの事件がときの皇帝ナポレオン3世の耳にはいり、皇帝が洞窟の柵をはずすように通達したので、ルールドの町民はお祭り騒ぎをして喜んだのであった。 そのあいだベルナデットは何もしないで遊んでいたわけではない。それどころか、ふつうの子どもよりもはるかに多忙な毎日をすごした。家計を助けるためによその家の子守りとして雇われたり、家事の手伝いをしたり、うるさいほどやって来る訪問客に会ったりした。とくに洞窟へ巡礼団が来るときは案内役をつとめる。そしてどんな質問が出ても、まったく単純明快に答えるだけで、そのことばにむだがない。いわゆる才女ではないのに、この利口な言動はしばしば質問者を驚嘆させ、感動させたのである。 そして人びとが気づくのは、この娘に特殊な宗教的体験者にありがちな神秘的、狂信的、瞑想的性質がないという事実である。たしかに本人も心霊的な神秘めかしたできごとには関心がなかったのである。 他人がただでくれる金をけっして受け取ろうとしないスビルー家は、相変わらず貧乏であった。まもなく、訪問客やインタビューを求めるジャーナリストたちの応対で疲れはてたベルナデットにたいして、ラカデ町長が特別な処置をとった。彼女を生活保護患者として養護院へ入院させてしまったのである。1860年7月15日のことだ。 "私は尊敬されたくない″ 養護院に入院中、彼女は自由に学校へ通うことができた。しかし16歳というのに勉強しても頭に入らない。国語や数学は苦手で、フランス語の文章を書かせればつづりはまちがいだらけである。ベルナデットの書いた手記はいまも数多く残っているが、まともな文章はまったくといってよいほどない。それでもまじめに勉強したとみえて、ペン字の練習の跡を示すノートがバルトレスの教会に残っているのを筆者は見た。性格をあらわすようにていねいに書かれていた。 ベルナデットは裁縫や刺しゅうのような実技になると巧みであった。また、かなりおてんば娘でもあり、よく年下の子どもたちと活発に動きまわって遊んでいた。 ベルナデットにも長所もあれば短所もある。ときにはひどく頑固になるのが大きな短所だったらしい。年上のシスターがスジの通らぬことを言うと、反抗的態度を示すこともあった。 彼女は、聖母マリアとの対面者だといって周囲から特別扱いされることをひどく嫌い、外来者が彼女を聖女として尊敬するような態度を示すと、明らかに不快な顔をした。 「私は神様ではないのに、なぜそんなに私にさわりたがるの?」と、よく言っていた。彼女は、敬わねばならぬのは人間ではなくてイエスと聖母なのだという考えに徹していた。 したがって、自分を尊敬されたくないと同時に、地位の高い人にもさほどの尊敬の念をもたかったらしい。質問されると、ありのままを率直に答えるだけで、お世辞めいたことばを口にしたことはない。ここに田舎娘ベルナデットの面目躍如たるものがある。 |
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