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  ルールドの奇跡 久保田 八郎
 

第2章1部 ベルナデッドをめぐる大論争

話をもとへもとすことにしよう。姉妹がマッサビエユの洞窟から帰って来たのは夕方だった。この日、仕事にあぶれた父親は朝からベッドで寝ていた。ベッドといっても、極貧の生活にあえぐ彼らが使用していたベッドは非常に粗末なものである。当時ベルナデットが使用していた簡素なべッドは、いまもルールドに残されている。

洞窟の出来事を恐れる両親

おしゃべりのトワネットは、洞窟からの帰り道に姉から問いたことを母親に一気にしやぺってしまった。

「お姉ちやんが、マッサビエユの洞窟で、白い服を着たすごくきれいな女の人を見たんだって。たしかにお姉ちゃんが、洞窟の下でひざまずいて祈っていたのを見たわ」

▲マッサビエユの洞窟の前で祈るベルナデット。1862年、ベルナデットが18歳のころ。1864年3月30日、この小さなマリア像は取りはらわれ、大理石の像となった。

母親は顔色を変えた。この娘は気がふれたのか、それともあの世の煉獄(れんごく)にいる亡霊を見たのか?

「くわしく話してごらん」 言われるままにべルナデットが一部始終を説明すると、両親は不安の表情を浮かべた。何か悪い事が起ころうとしているのではないか―。 

それでなくてもスビルー家は不幸続きなのだ。事業には失敗するし、まともな住む家もない。無実の罪でフランソワが刑務所に入れられたことさえある。さんざんな目にあっているのに、今度は娘がキツネつきにでもなったということになれば、もうメチャクチャではないか!

両親は恐れた。マッサビエユへは2度と行くなと、きつくいましめた。しかし、夜になって一同で祈りを始めると、ベルナデットはあの神々しい美女を思い出して、感動で涙がとまらなくなった。「どうしたの、ベルナデット、しっかりしなさい」 

母親が問いただしても、ベルナデットは答えない。洞窟に思いをはせているようだ。両頼を涙が流れ落ちる。

「何かの錯覚を起こしただけなのよ」 母親は娘をたしなめて言った。「もう2度と洞窟へ行くんじゃないよ」 

翌日の12日、またもベルナデットは洞窟へ行きたくなった。母親は強くしかりつけて許さない。この日はおとなしく母親のことばに従った。だが翌13日の午後には、思いあまってベルナデットは近くの教会の告解所に入った。ここは信者たちが自分のおかした罪を告白し、神父から指導を受ける場所だ。

ここでベルナデットから意外な体験を聞かされたポミアン神父は、無学な少女が確信をもって語る話の内容に、なぜか胸を打たれたのである。この娘は大変なものを見たのではないかと思い、主任司祭のぺラマール神父に話したところ、神父は肯定も否定もせずに、少しようすを見ようと言っただけだった。

■煉獄 ■聖水 ■聖母マリア

カトリック教会で、罪のあがないを果たすまで、死者の霊が苦しみを受け、浄められる場所をいう。ダンテの『神曲』には、天国、煉獄、地獄をめくる魂の旅が描かれている。

キリスト教会において、洗礼をほどこしたり、器物を浄めたりする際に用いられる聖なる水。水そのものが特別な成分なのではなく、司祭によって祝福を与えられた水を指す。 イエス・キリストの母。正式には、聖マリアと呼ばれ、その名のとおり聖霊によって処女のまま受胎した。キリスト教の普及とともに、マリアも広く信仰されるようになった。

しかし、後にこの小娘のふしぎな体験が奇跡としてフランス全土に鳴り響き、大聖堂が建立されるまでになったかげには、このぺラマール神父の力が絶大な役割を果たしている。そしてルールドの歴史にはこの神父も輝かしく名を残している。 

だが、その前に、小娘のとるにたりぬ話を重視した告解所の助任司祭ポミアン神父の存在こそ、後にベルナデットが聖女として崇敬されるようになった最大の貢献者なのである。もしポミアン神父が、ベルナデットの告白を笑いとばしてぺラマール神父に伝えなかったら、頭のおかしい娘の錯覚として埋もれてしまったか、または町中の笑い者になって、ベルナデット事件は闇に葬られたかもしれない。

ベルナデットにしか見えない美女

一方、トワネットとジャンヌが学校の友だちにべルナデットの目撃事件をしゃペりちらしたために、うわさが広がった。ただし、子どもたちのあいだだけである。

1.極貧のスビルー家が住んでいた元牢屋の住居。2.ベルナデッドが生まれたポリの水車小屋。3.ラカデの水車小屋。父方の家。4.マッサビエユの洞窟。ここでベルナデッドはまぼろしの美女を見て、数多くの奇跡を生み出すことになる。5.教会。6.大聖堂建立に尽力した主任司祭ペラマール神父の家。7.ベルナデットを取り調べたジャコメ警察署長の家。8.町役場と警察署。9.裁判所。10.サラセンの侵略を防ぐために築かれた城塞。11.ボーの門。12.洞窟のすぐわきを流れるガーブ川。

14日の日曜日になると、またベルナデットはマッサビエユの洞窟に行きたいと言いだした。妹のトワネットやとなりの家のジャンヌもいっしょに行こうと言う。

母親は強く反対したが、父親が許したので、一同は大喜びして出かけた。それでも彼らは、もしあれが悪魔の霊だったら、という恐れがあった。しかしそのときは聖水をふりかければよいと考えた子どもたちは、教会に寄って聖水をビンにつめ、それを手に持って行った。 

洞窟に着いたベルナデットはすぐにひざまずいて、ポケットから安物のロザリオをとり出し、両手にかけて祈り始める。 

「あっ、あれが現れた!ロザリオを手に持って、こっちを見ているわよ」 ベルナデットがうわずった声でささやくが、ほかの子どもたちには見えない。「どこにいるのよォ?」とキョロキョロ見まわす子どもたちの目にうつるのは、ポッカリと口をあけた洞窟と、木の茂みだけだ。 

ベルナデットは友だちから聖水の入ったビンを受け取って言った。「もしあなたが神様からつかわされた方ならここにいてください。そうでなければ消えてください。」

そして相手の方に聖水をふりかけたが、美女は微笑を浮かべながら立っている。

美女のまぼろしはベルナデットから至近距離にいたのか、それとも3メートル上方の例のほら大のところに立っているのか、この点は判然としないが、とにかく見えるのはベルナデットだけで、ほかの人間にはまったく見えないという事実が、この日のコンタクト(会見)で明確になったのである。そしてついに、ベルナデット以外に目撃者は1人もいないのだが、彼女の体験を疑う人もまったくいなくなった。この日以後に発生した彼女の一連の体験と言動が、信憑性のあるものとして人びとに認められるようになったからである。

体が硬直する

さて、洞窟の前でひざまずいて祈りを続けるベルナデットは、顔が青ざめて体が硬直してきた。子どもたちはこわくなって、おそるおそる顔をのぞきこみながら叫ぶ。

「どうしたの、第2章2部へ続くベルナデット。立ち上がって帰ろうよ」 手を引っばって立たせようとするのだが、なぜかベルナデットの体は重くてピクともしない。一種の失神状態らしい。

子どもたちの騒ぎを問いてかけつけたのは、洞窟の上の山道を散歩していたサピの水車小屋のおやじのニコロである。見ると、顔は血の気が失せて白ロウのようになり、崇高な微笑を浮かべた女の子が、石のように固くなってうずくまっている。

「何をやってるんだ?おい、立ち上がれ」

ニコロが引っばり起こそうとするが、おそろしく重い。そのうちなんとか立たせたけれども、ベルナデットの体はふらふらして、まともに歩けない。そして上向きの顔にはまだ微笑を浮かべて、遠い世界を夢見るような目つきをしている。 

やっとのことでサビの水車小屋までつれて帰ったニコロがベルナデットを休息させると、ここで娘は正気に返った。妹のトワネットの知らせを聞いてやって来た母親のルイーズはまたも娘をしかりつけた。

「あれほど洞窟へ行くなと言ったのに、言うことを聞かないから、こんなことになったんだよ」

だがベルナデットには洞窟の美女が胸に焼きついて消えない。あの美しい方は、やさしく笑って、私が聖水をふりかけても、少しもいやな顔をなさらなかった。だれなのかしら?考えれば考えるほどベルナデットはふしぎな気がして、同時に慕わしくなってくる。

第2章2部へ続く

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