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| ├ 写 真 |
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| ルールドの奇跡 久保田 八郎 | |
| 第1章3部 スピルー家の信仰心 |
| だが、翌年の56年なって、スビルー家は貧困の頂点に達し、家賃が払えずに借りていた家から追い出されてしまった。困りはてた末、フランソワのいとこにあたるアンドレ・サジューという人が所有していた、もとは牢屋であった建物の一室へ移ることにした。 |
この部屋はいまも残っているが、日本流にいえば8畳ぐらいの広さで、暗いじめじめした不潔な場所であり、とうてい人間の住めるようなところではない。ここに住んでいた当時のスピルー家は文字どおり貧しさの極の中にあった。 あるとき末弟のジュスタンは空腹のあまり教会へ行って、ロウソタから垂れたロウをひろって食べていたという。それほどに食べ物がなかったのである。フランソワによい仕事がみつからなかったのはそれなりの理由がある。彼はポリの水車小屋をやっていたころ、ひき石を金づちでたたいて、その破片が左目にあたりそれがもとで視力を失ったのだ。しかし子どもたちにはこのことをかくしていた。 もう1つの欠点は字が読めないことだった。片目で文盲ときてはよい仕事もない。しかし人びとは彼を誤解して、怠け者、酒飲みとののしる。だがスピルーはまったく感情をあらわにすることはなく、いつもやさしい顔で妻や子どもたちを愛し、妻のルイーズも心から夫を愛して、貧しさの中でも夫婦の仲はきわめて円満だったと、当時の彼らを知る人びとは証言している。 とりわけベルナデットは父親を愛し、尊敬していた。というのは、信仰深い夫婦には毎晩標準フランス語で祈りのことばをとなえる習慣があり、幼時からベルナデットは家庭の敬度な宗教的ふん囲気を誇りにしていたからである。こうした家庭に育てられたことがベルナデットの心を純粋に保つ要因になったのかもしれない。
バルトレスで牧童になる
1857年の9月になって、ベルナデットはバルトレスへ働きに出た。これには理由がある。じっは彼女が生まれて1年もたたぬ44年の11月、母親のルイーズが事故で胸にヤケドをして、ベルナデットに乳を飲ませることができなくなったのである。このとき、ルイーズの姉であるベルナール伯母がある情報をもたらした。それは、彼女の知り合いのマリー・ラギューという婦人がルールドから4キロ離れたバルトレスという村に住んでおり、ちょうど生まれたばかりの男の子を亡くしたばかりで母乳があまってしようがないので、その人にべルナデットをあずけたらどうかというものだった。 そこでフランソワとルイーズは1ヶ月5フランの契約でおさないベルナデットをあずけたのである。当時はまだ経済的に余裕があったので、他人に養育を頼むことができたのだ。こうしてベルナデットはマリー・ラギューを乳母として2年数ヶ月をすごした。この間マリーはベルナデットを実子のようにかわいがったので、ベルナデットも成長してから第2の母としての親しさを感じていた。
それに学校へ行かない彼女は、なんといってもカトリックの公教要理の勉強がしたくてたまらなかった。強大なカトリック信仰の国フランスでは、当時子どもは公教要理を勉強し、満7歳になったら初聖体を拝領するならわしになっている。ベルナデットも早く拝領して一人前になりたいので、公教要理の勉強もさせてくれるというマリー乳母のことばを信じて、57年13歳の9月から、またバルトレスの元乳母の所へ住みこみで身をよせたのである。 しかし、マリー乳母は昔のままではなかった。少女に成長したベルナデットをこき使う。家事の手伝いだけではなく、多くの羊をつれて牧場へ行かねばならない。食べる物もよくなくて、ベルナデットの体調は悪くなった。 なによりもつらかったのは、公教要理の勉強をさせるというのに、マリーはまったく教えてくれないことだった。 だがベルナデットは不平を言わず、従順そのものの生活を続けた。木曜日にはバルトレスの 教会の神父さまについて公教要理の勉強ができる約束だったのに、この日もベルナデットは10数頭の羊をつれて、数キロ離れた山の上の草原へやらされる。彼女がかよった坂道と羊小屋はいまも昔のままに残っているが、13歳の少女にとってはかなりの大仕事だったことだろう。 さすがにマリーも気がひけて、そのうち夜になると公教要理の本を持ち出して教えるように なったけれども、早口のフランス語でまくしたてるので、文字の読めないベルナデットにはよくわからない。ついにマリーは怒りだして、おまえはなんというバカな子なの、と口ぎたなくののしるのだがベルナデットは何も言わず黙ってうなだれているだけだった。 ベルナデッットが内心で苦しみながら徹底して従順で穏和な性格を示していたことは、当時の友だちであったジャンヌ・ベデールが証言している。
平凡な娘ベルナデット だがベルナデットが一般の子どもよりも特別に信仰心が厚いとか、神秘的な性質をもっていたという事実はない。ふつうの子どもと異なることはなく、ロザリオを手にしている姿も友だちは見たことがなかった。ときには畑で小さな祭壇を作ったりするけれども、これは当時の子どもたちがやっていた遊びである。 しかし、カトリック信仰が生活の最重要の要素となっていた当時のフランスでは、日常の動作のすぺてにキリスト教の影響があらわれていた。だから後にベルナデットは安物のロザリオを2サンチームで買って、いつもそれをポケットに入れていた。ときどきこれをとり出して繰りながら、意味のよくわからぬ標準フランス語の祈りのことばをとなえていた。うろ覚えのことばである。昔の日本で、小学校の児童のすぺてが、意味不明のままに教育勅語を暗誦させられたようなものである。 こういうわけで、ベルナデットに特殊な超能力があったわけではないし、頭のよい娘だというわけでもない。ただ抜群に性質がおだやかで、明るくて、だれにも親切であったという特長があったにすぎない。しかし、この特質が後になって大きな力を発揮するのだ。 学校へ通いはじめる 昔乳母だったマリ-はしだいにべルナデットにつらくあたるようになった。毎日曜日には休暇をもらってルールドの牢屋を改造した自宅へ帰っていたベルナデットは、58年の1月17日の日曜日にも、おみやげにわずかなジャガイモをかかえて帰ってきた。そして、バルトレスへは2度と行かないと両親に告げた。 こうして彼女は、ふたたび日光のあたらない暗い牢屋の自宅に住むようになったのである。 しかし今度は以前とちがって彼女の目に希望の光が輝いた。 なぜなら、ルールドで神父が子どもの初聖体の準備をしていると聞いたので、今度こそは公教要理を勉強して拝領したいと思い、そのことをかねてから両親に頼んでいたところ、両親もこころよく受け入れて、学校へ行かせることにしたからである。 「初聖体が拝領できる!学校でしっかり勉強しよう!」 ベルナデットの胸は向学心に燃えて、牢屋の生活にも励みが出てきた。14歳とはいえ小柄なので12歳ぐらいにしか見えない彼女は率先して家事に打ちこんだ。そして歴史的な2月11日となる―。
ファチマの奇跡
第2章1部へ続く |
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