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  ファティマの謎の太陽円盤 7つの謎と奇跡 より

第8章 フランシスコとジャシンタが逝く
 

1910年から1926年まで実に26回のクーデターが発生して、めまぐるしく政権が変わったポルトガルでは、1917年12月8日、またも大クーデターが起こって、大統領シドニオ・バイスがローゼス党員に暗殺され、政界で大きな変化が発生して過激派の活動も下火になり、カトリック信仰も復活してきた。

そこで翌年の2月にポルトガルの司教たちがリスボンで会合して、ファティマ事件以後、国内のカトリック教勢がいちじるしく好転したことをローマ法王ベネディクト15世に報告した。これに対して法王は好意的な返事を送り、7月10日には不仲であったボルトガル・カトリックとバチカンとの間に、外交関係が成立したのである。この原動力になったのは、実に3人の子供であった!

▲大聖堂内に安置されているフランシスコの遺体(花束のある床下)。
▲大聖堂内に安置されているフランシスコの遺体(花束のある床下)。反対側にはジャシンタの遺体が安置してある。

だが一方で、幻の聖母の予言は実現の方向に向かっていた。1918年のクリスマスの前々日に、フランシスコがひどく発熱して倒れたのだ。全ヨーロッパで猛威をふるったスペイン風邪がポルトガルにも襲いかかり、死者を弔う教会の鐘が終日鳴り響く。やっと第1次大戦が終わったのに、今度は病魔との戦いが始まる。記録によると、このスペイン風邪の影響はすさまじいもので、ファティマ村も圏外ではなく、サントスとマルトの両家もほとんど全員が寝込んでしまった。まっ先にやられたのはフランシスコである。

▲フランシスコとジャシンタの生家。
▲フランシスコとジャシンタの生家。

だが、この少年は聖母の予言を信じて、すでに死期が近づいたことを悟っていた。病床で祈りの言葉を唱え、1日にロザリオ二環を繰り返してすごし、翌年の4月4日に激しい気管支肺炎を併発して、ついに他界した。しかし、死の瞬間まで「苦しい」という言葉を口に出すことはなく、周囲に集まった人々に心から感謝の言葉を述べて、早朝6時頃に、わずか10年の短い劇的な生涯を終えたのである。息を引き取る直前に、戸口の所に美しい光を見たと言い残した。

続いて妹のジャシンタも病魔に襲われ、1920年2月20日に昇天している。この娘は、第1回の聖母とのコンタクトが始まるまでは、すねたりする性格の気むずかしい子だったが、コンタクトが始まってからは、打って変わったように柔順になり、幼いながらも熱烈な信仰者となっている。風邪が悪化して、ひどい化膿性肋膜炎になり、1919年の6月から8月まではビラ・ノワ・デ・ウレムの聖アウグスティーノ病院に入院したが、よくならず、いったんファティマの自宅に帰った。この頃、病床のジャシンタは、しばしば聖母マリアの幻とコンタクトをしたらしい。それによると、リスボンの他の病院へ入院せよとのお告げがあったという。

▲フランシスコが使用していたベッド。
▲フランシスコが使用していたベッド。

そこで家族は、まずリスボンの"奇跡の聖母院″に入院させた。ここは25名の孤児を収容する孤児院であって、病院ではなかった。市内滞在の宿泊場所として、仮の住家としたのである。ここにジャシンタは2週間しかいなかったけれども、その間の生活態度について院長のシスター・ゴジンホは次のように証言している。

「ジャシンタは遊びがあまり好きではなく、小食で、自分の病気については決して苦痛を訴えることもなく、毎日ロザリオを唱えていた。人間がウソをつくことを極端に嫌い、聖堂に入ることを好み、特別祭壇に通じる1室に入ってよく祈った。この敬虞な態度は他の人々の注目の的となった」

1920年2月2日にはドナ・ステファニア病院に運ばれ、8日後に名医として名高いレオナルド・デ・カストロ・フレーレ院長の手で手術を受けたが、ジャシンタ自身は、その前に聖母の幻とコンタクトし、すでに快復の望みが絶たれたことを知らされていたので、死を覚悟していた。

果たして大手術の効果はなく、最後の聖母の出現から3日後の2月20日、金曜日の午後10時、静かに別れの言葉を告げて、わずか11歳足らずで地上を去って行った。

臨終近い頃、ジャシンタの室の前を見舞いの婦人や看護婦たちが派手な服装をして通りかかると、ジャシンタは次のようにつぶやいたと記録されている。

「あんな格好をしてなんの役に立つのでしょう。あの人たちが"永遠"とは何かを理解していたら ― 」

死後も香気を放ったり、腐敗をまぬがれたりして一連の奇跡を見せたジャシンタの遺骸は、リスボンで盛大な葬儀が行われたあと、故郷ファティマのコバ・ダ・イリアへ運ばれて、懐かしい兄ワランシスコの眠る小さな墓のなかに納められた。現在、ここには次の碑銘が刻まれている。

「聖母の出現を見たフランシスコとジャシンタの遺体、ここに眠る」

聖母の謎の予言は永久に不可解か?

さて、関係者のなかで1人だけ残ったルシアはどうしたか?一家の父や見や姉たちを次々と失った薄幸な彼女は13歳になっていたが、この娘は依然として受難の日々をすごしていた。

▲ルシアが書いたポルトガル語の「思い出の記」。
▲ルシアが書いたポルトガル語の「思い出の記」。下半分は「1917年5月13日。コバ・ダ・イリアの斜面の上の方で、私はジャシンタやフランシスコと友にハリエニシダの草むらの周りで小さな石壁を建てながら遊んでいました。突然私たちはカミナリの光のようなものを見ました・・・」と書いてある。

しかし1920年に、ファティマを含むレイリア教区に、もとボルト神学校教授のジョセ・アルベス・コレイア・ダ・シルバ師が新司教として赴任して来た。この人は高徳の聖職者で、特にルシアをかばい、妨害者の手から守るためと勉学の機会を与えるために、彼女をひそかにボルト・ピラールの孤児院へ送った。1921年6月16日である。

ルシアが思い出多い故郷ファティマと訣別したこの日には、きわめて劇的な場面が展開した。この様子は当時の高名な作家アンテロ・デ・フィゲイレドの『ファティマ』第4章に感動的な美しい文章で伝えられている。

ピラールの孤児院では4年間勉学にはげみ、優秀な成績をあげて初等教育を修了した。いまでいえば高校卒業程度だが、この他にも家政、家事一般を学び、刺しゅうやタイプライティング、印刷植字の技術まで修得している。

一方ファティマではシルバ司教が音頭をとって、壮大な大聖堂の建設に着手し、1922年5月13日には、6万人の大巡礼団が当局の特別禁止令をおかしてデモを行ったが、このなかに、ルシアの母親マリア・ローザとジャシンタの母オリンピアが最も熱心な信徒として参加していた。

1925年の夏、ルシアはスペインのツイにある聖ドロテア会修道院へ入った。そして、翌26年の10月2日には、着衣式を受けて正規の修道女となった。

以上の経過も、ルールドの奇跡のヒロイン、聖女ベルナデットの場合と酷似している。

ただし重要な相違点がある。これが実はファティマの大事件の主要なポイントなのだ。

コバ・ダ・イリアでの第3回目のコンタクトで、ルシアが聖母から伝えられた予言類のうち、第4項は第二次世界大戦の勃発となって実現した。「いずれ夜間に不思議な光が発生するだろう」は、1938年(昭和13年)1月26日の夜6〜12時に、西ヨーロッパ全域において、異常なオーロラに似た色光が輝いたことで実証された。科学的説明のつかない不可思議な光として各国の新聞に報じられている。

だが問題は予言の第5項だ。これが第3次大戦の発生を意味しているらしいことは、かねてから取沙汰されていたが、その時期を示すと思われる肝心な最重要部分が隠されたまま、最初にルシアから預かっシルバ司教の手からバチカンへ送られて、いまだに公開されていないという事実があるのだ。

しかも奇怪なことに、1977年1月末、バチカン法王庁に厳重に保管されていた、このファティマ予言文書が何者かに盗まれるという事件が発生したのである!

しかしルシアは、いまもコインブラのカルメロ会修道院で老修道女として健全だという。そうすると、カギを握るのは法王庁のごく一部の首脳と彼女だけとなる。

だが、ルシアは重大な秘密を洩らしはすまい。それは1917年7月13日に空中に出現した聖母マリアに対する誓いなのだ。彼女が望むのは人々の精神的覚醒と世界の平和であろうが、それもすでに遅すぎたのかもしれない。そして心は常に懐かしいコバ・ダ・イリアの渓谷に帰っているのだろう。陽光にきらめく羊たちの白い毛や、幼いフランシスコやジャシシタとたわむれた60年前の萌える緑の草原のヒイラギの下に ― 。

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