巨大な石像群と奇妙な象形文字
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▲イースーター島で発見された「話す板」と呼ばれるもの。 |
大山塊の全体が変形して、鉄のように固い火山岩がバターのように切られ、一万トンに及ぶ岩石(複数)が仕上げのされたとは思えない場所に横たわっている。数百個の大石像のなかには三十三ないし六十六フィートの高さと五十トンもの重さをもつのもあるが、それらがふたたび動かされるのを待っているロボットのように、今日も挑戦的な目つきで訪問者をにらみつけている。もともとこれらの巨像は帽子をかぶっていたのだが、その帽子でさえも像の不可解な由来を解くカギにはならない。一個が十トン以上もある石の帽子は胴体にくっついていた所とは別な場所で発見された。しかもそれらの帽子を空中高く持ち上げる必要があったのだ。
当時奇妙な象形文字を記した木の枝がいくつかの像の上にのせてあるのも発見された。しかし現在は世界中の博物館でこの木片を十個以上見つけるのは不可能である。残っている木板に記された文字のいずれもまだ解読されていない。
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▲赤い石の帽子を載せたモアイ像。 |
この神秘的な巨人たちを調査したトール・ヘイエルダール(「コン・チキ号探険記」の著者)は、はっきりと区別できる三種類の文化期を確証したが、このなかで最古の文化期が最も完全であったらしい。彼は自分が発見した木炭の遺物を紀元四百年頃のものとしている。
壁炉と骨の遺物が石像と何かの関係があったかどうかはわからない。ヘイエルダールは岩壁やクレーターのふちで数百個の未完成の像を発見したし、数千個の簡単な手斧が、まるで突然に仕事を中止したかのようにあたり一帯にちらばっていた。
だれが巨像を作って運んだか
イースター島はいかなる大陸や文明圏からもはるかに離れた所にある。しかし島民たちは他のどの国よりも月や星々に精通していた。この島には木は生えない。そこはちっぽけな火山岩の土地にすぎないのだ。巨大な石像群は木のローラーで現位置に運ばれたというありふれた解釈はこの場合もあてはまらない。しかもこの島は二千人以上の住民に食糧を供給することはまず不可能だったはずである(現在は数百人の土民が住んでいる)。
島の石工たちに船で食糧や衣類を運んだとは古代ではほとんど考えられない。そうすると、一体だれが石群を岩盤から切り出して彫刻し、現在位置へ運んだのだろう? ローラーもないのにどのようにして原野を越えて数マイルも動かしたのだろう?一体どうやって像を仕上げ、磨き、直立させたのか?像の石切場とは別な石切場から切り出した石の帽子をどうやってかぶせたのか?
たとい豊かな想像力のある人がエジプトのピラミッドを「よーいとまけえ」方式によるぼう大なドレイ群によって建設されたと考えるにしても、イースター島では人力の不足のためにこれと同じ方式を用いるのは不可能だろう。二千人の人間が昼夜働いたにしても、幼稚な道具を用いて鉄のように固い火成岩から巨像を彫り出すのに十分な人数とは思えない。しかも住民の一部は不毛地をたがやしたり漁に行ったり、布を織ったり、ナワを作ったりしたにちがいない。そうだ、二千人の人間だけで巨大な石像群が作れるわけがないのだ。しかもこれ以上の人口はイースター島では考えられない。すると、だれがこの仕事をやったのか? どんな方法でやったのか? なぜ石像群は島のフチにならんでいて、奥地にないのか? いかなる信仰に用いられたのか?
愚かな白人宣教師と空飛ぶ人間の伝説
しかし残念なことに、この島へやってきた最初のヨーロッパ人宣教師たちが、島の暗黒時代を暗黒のままに閉じこめてしまったのである。
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▲空をにらむイースター島の石像群。 |
彼らは象形文字の記された木板を焼き、古代からの神々の信仰を禁じ、あらゆる伝説を抹殺してしまったのだ!だがこの"信心深い紳士たち"の徹底的な破壊にもかかわらず、この島の原住民たちが島のことを"鳥人の島″と呼ぶ習慣まで禁ずることはできなかった。今でもそう呼んでいるのである。
伝承によると、古代に空を飛ぶ人間がこの島に着陸して火を燃やしたという。この伝説は大きな、にらみつけるような目をした空飛ぶ人間の像によって確証される。
ここでイースター島とティアウアナコの関係がひとりでに浮かびあがってくる。ティアウアナコにも同じようなスタイルの像があるのだ。
禁欲的な表情をたたえた尊大な顔つきは両方の像に共通している。一五三二年にフランシスコ・ピサロがインカ人にティアウアナコのことを尋ねたとき、彼らはその町がずっと廃墟だったと答えた。ティアウアナコは人類の闇黒の時代に建設されたというのだ。伝説によればイースター島は"世界のへソ"といわれている。ティアウアナコからイースター島までは三千百二十五マイル以上も離れている。一方の文化が他方のそれに影響を与えることができるだろうか。
>>第8章(2)へ続く |