保険が証明する
ロンドンのロイド社は、数百年前保険を1つの事業として正式に開始されて以来、全世界の海運記録を保管している。今日、海上保険は世界的な企業となり、船舶の喪失は綿密に検討された上、次の6種類の項目に分類されて定期的に公表される。(1)海難のみが原因である浸水沈没、船体折断。(2)船火事、(3)衝突、(4)岩盤、海岸、暗礁による遭難、(5)行方不明、それに(6)その他の原因、の6種類である。「行方不明」とは、何の痕跡(破片、遺体など)も残さず、緊急信号が受信されることもなく消滅することである。
1961年1月1日から1970年末までの問に、ロイド社のリストには2766件の船舶喪失が記録されている。そのうち11366件は遭難、771件は浸水沈没によるもので、行方不明も70件にのぼる。
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▲アーサー・ゴッドフレイ氏 |
行方不明の最大のものは、植物油と苛性ンーダを積んでルイジアナ州ニューオーリーンズから南アフリカのケープタウンに向けて出航した1万トンのミルトン・イアトリディス号であり、2番目は穀物を積んでバージニア州ノーフォークから英国のマンチェスターに向かった7426トンのイサカ・アイランド号である。
どちらもバミューダ付近で姿を消したものである。地図を開いてみれば何かを思い出すだろう。
「バミューダ三角海域」という名に心当たりはないだろうか。
もしなけれは、大西洋のこの海域ではたくさんの船舶や航空機がまことに不可思議な状態で行方不明になっていることを記憶していただきたいのだ。
海で船が沈没したり行方不明になったりするのは大昔からあたりまえのことのように思われてきた。船舶と陸地との間に無線連路が行われるようになったのは比較的新しいことで、前述の6種類の分類のうち「行方不明」が異常な事態として注目を集め始めたのもそれ以後のことだった。
続いて航空機が登場する。もっとも、小型飛行壊は陸上基地やお互い同士、船舶、そして軍用横の場合には潜水艦などとも緊密に連絡をとり続けているものだ。それに、航空機は水平線が防害となるまでは肉眼でもレーダーでも監視可能だし、それ以上になれば無線連絡がとれる。そこで、航空機の行方不明が記録されはじめると、事態はもっともっとやっかいなことになってきた。
航空機がレーダーや無線の到達範囲から出てしまっても、自家用機以外は飛行計画が提出してあり、コースが記録してある。それに気流の乱れにより空中分解して沈没したり、衝突、火災などで遭難しても、水上または地上に何か痕跡が残るものだ。たとえそれがただ一筋の油の流れにしてもである。だが、第2次大戦中から戦後にかけて大洋横断飛行がさかんに行われるようになると、飛行機の行方不明が続発し始めた。もっとも戦時中はゆっくり調査するひまもなかったのだが、戦後になって次の事件が起こり、事態は新しい展開を見せはじめた。
雷撃機と飛行艇の謎の失跡
1945年12月5日、フロリダ州フォートローダーデール海軍基地から5機のTBMアペンジャー雷撃機が、おきまりの哨戒飛行に出発した。飛行計画によると、大西洋上を真東に160マイル飛行し、それから北に変進して40マイル飛んだのちまっすぐ基地に帰投することになっていた。縮隊は午後2時に離陸して、3時35分にはあまり順調でないという最初の連絡をしてきた。どこを飛んでいるのかわからない、どっちが西かも不明であり、「何もかも狂っていて・・・・おかしい。方角がはっきりしないし。海までがふつうと違う」というのである。それから1時間、基地では5人の操縦士間の交信に耳を傾けた。4時25分に編隊長がフォートローダーデールあてに「どこにいるのかわからないんだ。基地の北東225マイルだろうと思う・・・・そうらしい」と報告してきた。5機のTBM消息はそれきり絶えたのである。数分後に1機のマーチン・マリナー飛行艇が捜索払飛び立ったが、15分後にはこれも消滅してしまった。それから実施された捜索作戦は時間からいっても捜索範囲からいってもおそらく史上最大のものであったが、5機のTBMに関してもマーチン・マリナーに関しても何の痕跡も発見されなかった。
だが、読者がもう一度地図を開かれれば、この事件はひどく間違った名称をつけられたことがおわかりになると思う。いろいろと調べた結果、私はこれは意味をとり違えたのだという結論に達した。事件を最初に報道した記者が、この飛行径路は三角形としていたと書いたのは正しかった。ただ、そのあとで他の記者たちが、この三角形の頂点はバーミューダと一直線上にあることに気づいたのだ。それから1964年になって有名なビンセント・ガディス記者がその記事に「バーミューダ三角海域」という表題をつけ、それが、どういうわけだかわからないが人々の気に入った。表題はまぎらわしいが、物語はなかなか面白かったのである。
第2話へ続く |