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 シベリア謎の大爆発

第3話 UFOと宇宙 No.12 1975 より
 

そこで今日多くの同意者を得ている別な仮説を調べてみることにしよう。あの爆発は原子核分裂により放出される熱エネルギーだったという説である。アメリカのノーベル賞科学者リビーは、この説の重要な弁護者の一人である。ここで問題となるのは次の点である。

「1908年のツングース上空の核爆発は自然なものか、それとも人工的なものか?」この問題に深入りする前に、この説が出されるようになった経過を見ることにしよう。


核爆発に違いない!

 ツングースの真相は何か? 爆発現場の中心から約17、8キロの所で、樹木群がハダカにされ、爆発中に光の放射によって燃えたことをゾロトフは発見した。生木ならその表面の1平方センチメートルが60ないし100カロリーの熱線の放射を受けてはじめて燃えるのである。このことから推定できるのは、爆発で発生したエネルギーはおよそ1.5×10の23乗エルグに達したに違いないということである。これはもっぱら核爆発をあらわすものであって、化学的な爆発ではない。

 我々が爆発の最も重要な媒介変数を知っているとすれば、関連した温度を計算できる。ツングースの爆発は数十億度の熱を発生したのである。あまりの高温なので15−18キロメートルの範囲内の生木は燃えた。クーリクの最も親しい共同研究者の一人であるE・L・クリノフは、ある樹木群には一部分だけ焦げた小さな枝がついていることを発見したが、これは大きな枝で保護されたからである。 もっと最近の調査によると、火事は実際には急激な熱の発生の結果であり、小枝を完全に焼きつくすような山火事によるものではないという結論に達している。

  別な奇妙な事実は、木が焼けた度合いはどれも同じではないということである。このことから大火は樹木の下の方から発生したのではないと推定された。焼け焦げた跡は高熱のガスでできたものではない。高熱のガスとすれば爆発は数十倍も強烈となり、中心地から遠く離れた木も根こそぎやられたことだろう。以上のすべてを考えれば、熱放射によって誘発された火事は核爆発の結果だということになるのである。

  更に各地の観測所の1908年6月30日のマイクロ自記気圧計は0.001から0.1ヘルツに及ぶ周波数の衝撃波を記録しているという科学的証拠が残っている。このような周波数は大気中の巨大な核爆発の典型的なものである。

 磁場の変化と西ヨーロッパ各都市の連続3夜に及ぶ光輝現象に関する限り、トムスクのプレカノフが長となっている物理学者のグループが1958年のアメリカによるビキニ核爆発と半世紀も前のシベリアの爆発とを比較検討した結果を1960年に公表している。ビキニの爆発はツングースの場合に酷似した地球重力場の変化をひき起こしたし、また夜間の激烈な光輝現象も発生したのだが、シベリアの事件ほどにはおおやけにされていない。シベリアの雲が黄色からピンクに変化したのは、大気圏内に放出された放射能塵との接触の結果である。

 したがって1908年6月の末にツングース・タイガの上空で核爆発が起こったことは、だれも否定できないのである。

 しかしまだ疑問がある。この爆発が熱原子核分裂なのかそれとももっと普通のものなのか、そして自然現象か人工的なものかという問題だ。

 これについてはG・P・プレカノフとコステエロフを隊長とする”植物探険隊”の驚くべき調査結果が、現地を特別調査したあとの1969年に発表された。

樹木の年輪でわかった!

 それによると樹齢40ないし50年(これは爆発後に発芽したことになる)の唐松や樺の木が普通なら7、8メートルの高さになるべきところを、実に17ないし22メートルの高さに生長していたのである!

  つまり、この種の樹木ならば200〜300年かかってやっと達するような大きさになっていたのだ。こうしてこれら樹木の遺伝構造は1908年に根本的に変えられたのであり、これは放射能で起こった現象なのである。幹の切口を沢山集めて慎重に調査した紙果、1908年以前にできた年輪は0.4ミリから2ミリの太さがあったが、爆発以後にできた年輪は5ないし10ミリの太さになっていた。爆発を受けて今日も生きている多くの木は50年以上にもわたってその年輪の太さを4倍も増大させていたのである!

▲爆発現場の唐松。 (上左)5mmの年輪ををもつ樹齢40年の木。  (上右)1908年まで1.0mmの年輪をもち、その後は3.2mmになった樹齢95年の木。 (下)1908年に焼けた唐松。それまで1.2mmの年輪が以後は5mmになった。

 この種の異常な発達は放射能をあびた植物に見られる特徴である。パルガ地理学会の研究所では、爆発現場から100個以上の木の切口を詳細に調査した。各木から7ないし15個の標本を採取したので、全部で1000個以上が検査された。これでわかったのは、生木にせよ枯木にせよ大多数の木は爆発時かまたはその後に放射能をあびたという事実である。最近の調査の結果、外側の10ないし15本の年輪は放射能を多く含んでいることも判明した。最も重要な事美は次のとおりである。

 1908年中かまたはその直後にたくわえられた年輪の増加放射能は、人工的な放射性同位元素の存在の仮定を必要とするということである。 焦げた木片の調査中に高感度の分光計が用いられて、放射性同位元素セシウム137の存在が確証された。

 核爆発誠に対する同調者がふえるにつれて、各種の説が出てきた(天文学者ユーリーの説のように)。放射能を持つ隕石、慧星、その他の天体が大気圏内に突入して爆発したため、樹木が放射能をあびたというのである。しかしこうした説は時代の試練に耐えてはいないし、慧星が爆発して核爆発を起こしたという推測もだめである。その慧星は放出されるガスのために断面にして50ないし70メートルはあったと考えられた。しかし”物体”が弾道を描きながらゆっくりと飛んだ速度から考えて、この説も不可能である。

 イギリスの科学誌ネイチャーが、アメリカのノーベル賞受賞者リビーの記事を1965年に掲載したが、それによると北米の樹木中に放射性炭素14が存在したことを報告している。彼は1909年から樹木が放射能の増大を示したことを述べているが、これはソ連のアカデミ−会員A・P・ビナグラドフも確証した。リビーは1908年にツングースの上空で核爆発があったという説の熱心な主張者であるが、むしろこれを”反隕石”だと話す傾向がある。

▲物体の飛行コース(矢印の線)

 当時大気圏内に宇宙の反物質が突入して物質と反物質の破壊をひき起こしたという彼の考えは充分うなずけるものがある。これはすでに1948年にアメリカの隕石学専門家ラ・パスがとなえた説である。もちろん完全に仮説上の可能性にもとづいているからには純粋な一つの説である。

  そしてプレカノフ、ブロトフ、フエセンコフらのソ連入学者は、これらアメリカ入学者が慎重につくられたツングースの資料を充分に取り上げていないと抗議している。ツングースの上空で何が爆発したにせよ、10メガトンに等しい力を持っていたのであり、その程度のエネルギーを開発するには300ないし400グラムの”反隕石”を必要とする。この”反隕石”が美際に地球大気圏に突入したと仮定すれば、”物体”が通過したと思われる軌道の計算を可能ならしめる弾道波をひき起こすことはなかっただろう。

  弾道波の力は本来、もとの爆発のそれよりもはるかに小さいが、物体の直径を数メートルと推定させるほどの大きさはある。”反隕石”は径数メートルの物体ではない。しかも”反物質”物体を見た者はだれもいない。このような物の存在は全く科学的な憶測から出た公式にもとづいているのである。またこの種の物体があるとすれば、物質と接触したとたんに爆発するだろう。すなわち、太陽系に突入することは爆発を意味することになるだろう。しかしこれは地球から数百万キロメートルの所で起こるだろう。

  だが反物質で推進する宇宙船がツングースの上空で爆発したという説を認めるならば、反物質の爆発の可能性はある。この考えはソ連の学者X・N・メヘドーレが、各調査団の結論を研究した結果、出したものである。反物質から出るエネルギーで駆動するモーターの爆発は、核爆発について我々に知られている特徴のすべてを示すだろう。

 人工的な原因によるというこの考えを支持する有力な説は、物体が飛んだコースを再現すれば出てくるかもしれないが、この線の調査は現在まで決定的な結論に達していない。以下はその例の要約である。

 1964年に公表された資料によれば、物体は南から北へのコースをとったと考えられている。ブロトフと共同研究者たちは爆発地域で打ち倒された樹木を調査して、別な結論に達した。物体の飛行コースは弾道ショックで倒された樹木の縦軸と一致する。つまり物休が最初西から東へ飛んで、次にバックするという急激なカ向転換を示すコースなのである。南から北へ飛んだという最有力な説はアストポピソテ教授が出したもので、物体の飛行中に記録された地霹や電気的な変化と関連のある多くの複雑な計算にもとづいたもので、また爆発地域近辺に住んでいて実際に飛行ぶりを見たか、または2種類の音響の一つを聞いたりした目撃者たちの証言も取り上げている。それぞれ別個に研究していたこの両方の研究家の計算と結論は、爆発の中心部に関する推定で正しいことがわかった。

  すでに述べた爆発現場の模型によるゾトキンとテルタリンの実験は、南説と東説とが必ずしも互いに矛盾しないことを示した。すなわち、ツングースの物体が飛行中にコースを変えたということは”だれか”がこれを操縦していたということになるのだ!

  物体は大気圏内に突入後、ケシュマまでの南方コースをとったあと、ブレアスブラジュン力付近で突然東へターンした。当時ポーランドのタトランスカ天文台に属していた天文学者は、1908年6月30日に1個の”火球”を目撃したが、この物体はポーランドの上空で急にコースを変えた。こうして力学の法則のすべてを無視したのである。これが同じ物体だったとすれば―この天文学者の日時が一致する点からみると、同物体であることにまず間違いないと思われるが―、ツングースの”隕石”または”慧星”は爆発の前に奇妙な”踊り”を演じたことになる。

 最後に、数種の事実がある。方向や速度ばかりではなく高度にも関するもので、このため、物体が何かに導かれていたことを我々に確信させるのである。飛行コースの変化の一致からみれば、タイガ上空の爆発物体の特徴について、もはや疑惑の余地はほとんどない。

  要するにそれは知的生物によって誘導されたか遠隔操縦された大気圏外物体の特徴を示しているのだ。しかしそれから推定すると、1946年に作家のカザンチェフが述べているように、事故のために爆発したというのはこじつけのように思われる。

  ただし人間の空想の枠内では、すべての推測がみな正しくなってくるものなのだ。ツングースの爆発は、地球上の影響を調べるためかそれともただ大気圏外の知的生物の方へ注意を引かせようとしたのか、その知的生命体によってわざと行われた実験的なものだったかもしれない。これはバカらしい考えだろうか?

 1971年9月初旬にソ連南部のアルメニアのビュラカンで、国際科学会議が開かれた。これはおそらく歴史に残る重要なものとなるだろう。ソ連、アメリカ、イギリス、その他チェコスロバキアとハンガリーを含む東欧諸国の研究者が集まって、人間の住む別な惑星の存在の可能性や宇宙の他の文明と接触する方法の有無などを討議した。

  一体にソ連の科学者は西欧のそれよりも、この分野では深く考える傾向がある。たとえばその会議で議長をつとめたビュラカン天文台長ビタトル・アンバルツミアン博士がそうである。

 地球人の存在を宇宙空間の他の人類に知らせる方法について協議していたとき、科学者たちは、知的生命が発達していると思われるあたりで水爆を爆発させたらどうかと提案したのである!

 ツングースの謎の大爆発とUFOとの関係についてはだれでも考え得ることで、地球大気圏内の”空飛ぶ円盤”には知的生命体が関連していること、そしてそれがツングースの爆発をひき起こしたことは、きわめてあり得ることである。UFOは今もなおあのときの残骸を探しているのかもしれないし、あるいは彼らが地球大気圏内に出現するのは全く容易なことだと我々が考えているという結論を爆発から引き出したのかもしれない。

「この間題をだれが解決するだろうか?人類か?」

久保田八郎 訳

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