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新アダムスキー全集

 ├ 写 真
中央アート出版社
TEL : 03-3561-7017
E-mail :info@chuoart.co.jp
  解説 テレパシー

第1章 1部 1980年 1月12日 解説
第1章1部 第1章2部 第1章3部 第2章1部 第2章2部 第2章3部

明けましておめでとうございます。昨年は大変お世話になりまして、ありがとうございました。

今年もよろしくおお願いいたします。

今年度はアダムスキーの「テレパシー」の解説を行なうわけですが、それでば早速、11ページの第1部から1時間ほど解説してみたいと思います。

この「テレパシー」につきましては皆さん方、何度もお読みになったり、あるいは今までにも解説講義を行ったことがありますので十分ご存知と思いますが、しかし、テレパシーなるものがあまりにも奥が深くて簡単には身に付けがたいですので、従ってどんなに何度も繰り返しこのテキストを研究しても研究し過ぎることばあるまいとうことで繰り返しやっている理由なんです。


(1) テレパシー開発の意義 −宇宙的な人間になるためにー

「テレパシーという言葉はもう十分ご存知と思いますが、これは「AとBとの2点間における、一方の人間の神経と心理過程が、他方の人間の神経と心理過程に直接に影響を及ぼすことによって生じる、人間の情報伝達あるいは交流の特別の形態である」という風に、ソ連の医学アカデミー会員のリオニード・ワシリオフという人が定義づけているんですが、まあ、こんな定義はどうにでもなるわけでして、要はテレパシーというものが一体、どういう意義を帯びているかということをしっかり把握しておくことだと思います。

それではまず、なぜアダムスキーはこのテレパシーというものを重視してこういうふうな書物をわざわざ出したのか、なぜ私たちはこれを中心もってきて、やらなければならないのか。何故、こんな能力を持たなくてはならないのか、というその意義を考えてみましょう。

テレパシーというのは"一種の超能力"に入るわけですね。"超能力"という言葉自体はあまり好ましい言葉ではないんですが、他に言いようがないから"超能力"と仮に言うぐらいのことなんですが、その超能力の中には、テレパシー、遠隔透視、過去世の透視、オーラ透視というような、色々な能力が含まれていて、全体をひっくるめて"超能力"といいます。私達がこういうものを開発しなければならない意義はどこにあるのかといいますと、つまり、私達が宇宙的な方向に進んで行くために―言い換えれば、自分自身を宇宙的な人間にして行こうとするために、このテレパシーパシというものが不可欠な能力であるということなんですね。

敏感であることが大切

ところで、よく、宗教的な指導者たちが非常に雄大な言葉を述べて、やれ神の愛がどうのこうの、人間はもう神によって救われているとか何とかカントカ言いますけれども(それはまあ、それでかまわないと思いますが)、しかし、そう言う"言葉"でもって人を説く人自身にテレパシックな、或いは超能力的な能力が何もないという場合はいつも自分がどういう状態に陥るのか予知することが出来ませんし、第一、人を救うといっても本当の助言を相手に与えることは出来ないですね。

言い換えれば、鈍感なままに「神の愛」という言葉を百万だら唱えても、それは本当はあまり人を救うことにはならないと言えるわけなんです。そこで私達はもっと敏感になる必要があるのであり、敏感さ、これを身につけないことには、宇宙的な方向に行けないということなんです。

敏感さといいましてもいろいろ段階がありまして、ある程度普通の人よりは敏感だ、神経質だという程度から、さらにもっと進んでいきますと、遠方にいる人と通信ができたり、或いは遠方にあるこうけいはが見えたりするようなことにもなりますし、まだまだ段階があるいますけれども、恐らく無限でしょうね、この能力は。ものすごく宇宙的な人間になりますと、150万光年以上も彼方の星雲―例えばアンドロメダ星雲みたいなところにある一つの惑星上の光景を、居ながらにしてここから視ることができる人がいるかもしれません。

私達もそこまで行かなくても、非常に敏感さを身に着けていれば「何か今日はよくない事が起きそうだ」とか「今日は何処其処へ行くことになっているけれども止めた方が良さそうだ。」と思って、例えばお宮参りに誘われて行くべきところを行かなかったばっかりに、吊橋が落ちて大勢の人が死んだり、怪我をしたりするその仲間に入らなくて済んだということになるかもしれません。

或いはまた自分ではハッキリその表層意識にそういうことを意識していなくても、何となく今日はどういう風にすればいいんだというような、一種の印象といいますか衝動といいますか、そういうものが起こってきて、自分は表面では一応盲目的にその衝動に従ったばっかりに良いことになったということがあるかも知れません。「あるかも知れない」どころではなく、おおありですね。

日常、私達は全てそういう印象や衝動に従って生きているんですが、残念ながら多くの人は内部から宇宙的な印象や衝動が起こっているんだという理論的なことを知らないですから、いわば盲目的に生きているわけです。モチロン、ある程度は印象や衝動に従って生きているんですが、誤った印象もありますから、それによって行ったたならばとんでもないことにもなりかねません。ですから本当にに宇宙的な意味での敏感さ・鋭敏さというものを身につける必要があるのではあるまいかということなんです。

こういうようなことを唱えたのはアダムスキーが最初でしょうね。つまり宇宙的な人間になる意味において私たちは、単なる"神の愛"とか、あるいは"仏の慈悲"とかいうような観念的なことだけでなしに、自分自身の内部からこういう能力を発達させなくてはダメだということを論いたのは、古今東西のあらゆる哲学者・求道者の思想をず〜っとひもといてみましても、アダムスキー以外にいあにですね。西洋哲学者も哲学史上ずいぶん偉大な人が出ていますが、みんな言葉の観念の遊戯に終わっています。もちろん、まるっきり言葉の遊戯ということでもないでしょうけれども、しかし、個人の内部からの開発というようなことは、西洋哲学よりもむしろ東洋哲学の方がその面では深かったと言えると思うんです。しかし、アダムスキーのように、テレパシシーとか一種の超能力(超能力という言葉はよくないですけれども)開発しなくちやダメだと唱えた人は東洋哲学者の中でもちょっと見当たらないということなんです。

興味本位ではいけない

このテレパシーというのが単なる見世物的な超能力じゃなくて、もっと深い宇宙的な意義があるというのならば、それじやあ、それをどうして開発するかということなんですが、その開発の方法はこれからこのテキストの中にずっと述べてあるわけなんです。

まあ、見世物的な超能力ならば、今でこそはやりではないからちょっとなくなりましたが、ずっと以前はテレビにですね、「世界ピックリ番組」とかいうのがよくあったもんです。そしていろんなすごい能力を待った人が出てきて、信じられないようなことをやっておりましたですね。例えば約80度Cぐらいの熱湯の中に素裸でつけられて何ともないという人もいましたですね。そこで、あれは本当は80度Cもある、そんな熱湯じゃなくて、本当は30度とか40度ぐらいの湯をそれらしく見せかけてごまかしたんだという視聴者からの批判があったそうですが、私がテレビ局の人から聞いたことによれば、そんなことはない、やっばり70〜80度Cのすごい熱湯の中に実際、つけられたんだということを言っておりましたですね。

その他、まだまだいろいろ、焼けた炭火の上をはだしで平気で歩いたり、あるいは刀の刃の上を素足のままで歩いたりするとか、あるいはテレパシーの能力もありましたし、それから実際有名なユリゲラーの超能力ですね。これは私は実際にユリゲラーがカギかクギでしたかね、 それをものすごい超能力でもって曲げてしまったのをすぐ側で見たこともあるんです。あれは本物だと思いますね。あれをマスコミ方面では随分たたかれていましたけれども、私の見る限りではあのユリゲラーというのは絶対本物です。すごい能力を待った人ですね。で、まあ、それはそれでいいんです。いいんですが、

しかし、私はそういうテレビに出てくるような超能力者の演技をいろいろ見ていて次第にあきあきしてきたわけです。テレビで多く超能力者がすごい演技をやってみせるのを見ていてですね、「だから一体どうしたというんだ」「ごく少数の人がテレビに出てそんなことをやっているのを我々が見たって、我々自身がそれじゃ、どうすれば一体幸福になれるのか、世の中に何の影響もありゃしないじゃないか」 というふうに、ひねくれた考えを起こせばそう言えるわけですね。要するに一種のタレント化したそういう超能力者がテレビに出て、そして出演料で大金をもうけるのを、我々能力のないものが自宅の受像機の前で見て喜んでいるだけのことじやないか、ということになるわけです。

ま、そう言えば身もふたむないんですが、実際はああいうふうにテレビに出て超能力を演ずる人たちの役割はやっばりあると思いますね。入間の可能性というものを示してくれた意味では役割はあると思うんです。しかし見世物として人に身せているだけじやあ、やっぱり我々にとっては何の関係もないことだということになるんです。

ところで、私たちは自分自身の人生をどう生きるかにおいて誰しもいろいろ悩み考えたりするわけですが、いくら頭でひねり出そうと考えても、なかなかわからないことがよくありますね。

例えば、いよいよ今年は卒業だ、これから就職しなくちゃならないがどんな仕事に就いたらよいか、どういう方面を開拓して行ったらよいか、さっばり見当もつかない。特に今は就職難でなかなか難しい、というようなことでああでもない、こうでもないといろいろ考えるわけです。ところがいくら頭で考えて知恵をひねり出そうとしても、考えれば考えるほど迷ってしまって訳がわからなくなる。そのうち自信を失ったというんで高島あたりの高い所から飛び降りて死んだりするというようなことになりかねないですね。

そこで、そういうような迷いを起こさないためにも、私たちは内部からの非常に宇宙的な正しい印象または衝動を起こす方がよいわけで、そのためにひとつの能力としてこういうテレパシックな能力を持とうじゃないかということなんです。だからテレパシーというのは単なる興味本位の、人を驚かせて喜んでいるというようなそんな能力をつけようとしているわけじゃないですからね。いわば宇宙的なすごい敏感な人間になろうということなんです。

 まあ、アダムスキーなんかは実際にものすごく敏感な人であったわけです。それからビスタのG A P本部のステックリング氏夫妻、ホワイティング氏なんかも非常に敏感ですね。ぴっくりするほど敏感です。敏感ですからこそまた他人の気持ちがよくわかるんで、従って相手の身になって考えることもできるわけですね。敏感でなかったら相手の身になって考えられないですからね。

相手の気持ちがある程度察しられるからこそ「相手が困っているな、じゃあ、こうしてあげよう」という風になるわけです。例えば「この人、どうものどが乾いて何か飲物を欲しがっているな」というふうに敏感に察知したならば、すぐにお茶をくんできて、「これを飲みなさい」ということが言えるわけです。そのことをわかっていながらお茶をくんでこないというのは、これば横着なんですが。そういうことでなしに、もっと他人の気持ちをどこまでも察して、「因っているんなら何とかしてあげましょう」というふうにしなくちゃいけないんですが、そのためにはとにかく敏感でなくちゃいけないということです

と言って、私がそんなに敏感であるわけでもないんでして、むしろ鈍感な方ですが、だからこそ私も「これじゃダメだ、何とかしよう!」と考えて、しきりにやっているわけなんですね。ですからテレパシ−というものを単なる興味本位の、ひとつの「鬼面、人を威かす」という意味でやるんじゃなくて、もっと宇宙的人間にするための、自分のないぶからの敏感さを発揮するためにこういう開発をやるのであるということなんです。

>>第1章2部へ続く

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