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  古代マヤの謎 第3話 

7つの謎と奇跡 1981年主婦の友社発行 より転載

ムー大陸の哲学は、宇宙の創造主に対する崇拝思想でつらぬかれていた。そして太陽が創造主の象徴とみなされた。 

ムー大陸の宇宙思想

王位継承者は神の代弁者であり、「ラ」という太陽の称号を与えられたけれども、神そのものとして崇拝されることは禁じられていた。あくまでも人間として傑出した存在であり、しかも国民によって選出されたのである。いまからわずか30数年前まで1人の人間を現人神として仰いでいたどこやらの国と比較すると、一万数千年の大昔にムー帝国で行われた思想がいかに次元の高い宇宙的な哲学であったかがわかろうというものだ。

この深遠雄大なムーの宇宙哲学を表象するシンボルには各種のものがあったが、その代表的な図は円で囲まれた十字でる。円は宇宙あらわし、十字は創造主の意志を伝えた宇宙の四大パワーを意味した。これは生命の木をあらわすT(タウ)から出たものであり、この十字が回転する姿としてスワスチカ(卍)が生じたのである。四大原動力と宇宙の磁気、太陽の引力、惑星の磁気と引力である。そしてムーではこのパワーを創造主の意志、願望であるとみなした。

その栄光あるムー大陸は海底に沈下した。この模様は『トロアノ古写本』に詳細に記してある。

「カンの6年、11ムルク、サクの月に恐ろしい地震が始まり、13チェエンまでやむことく続いた。ムーの大地はニ度隆起し、夜のうちに消滅した」

これが記録されたのは1500年から4000年前のある期間であるといわれており、そして「この書の編集に先立つ8600年前の出来事」と結んでいる。

謎のオルメカ族

だが消滅しなかったのはムーの偉大な文明に関する伝承とシンボルマークである。これが先史民族によって世界各地に伝えられたことは前述のとおりだが、精神は退化しても忠実に守り通した種族が中米にひっそりと住んでいた。マヤ以前の謎の民族オルメカである。この種族はマヤよりもはるか昔から精密な長期真期計算法による暦を考案していたし、文字も発明していた。オルメカ族がマヤの祖先であるか否かはたしかでないが、少なくともメソアメリカの各種の文化に大きな影響を与えたことはまちがいない。

しかしベラクルス州南部とその隣のタバスコ州の海岸地帯で勃興したオルメカ文明は、ある時点で突如地上から消滅した。だがなぜオルメカ人はタバスコ州の海岸でなく、その奥のジャングル中の沼沢地ラベンタに大ピラミッドを築き、重さが数トンもある巨大な人頭像を作って消えてしまったのか? だいいちこれらの石材である玄武岩の産地は百キロも離れた奥地にあったのだが、これをいったいどのようにして運んだのか? 車輪のついた運搬用具を知らなかったのはオルメカだけではなく、マヤもそのような道具を用いた形跡はないのに、やはり数トンもある巨石を運んで壮大なビラミッドや神殿を建設している。驚くべき数体系、天文学、暦法などを会得していたこの古代の民族オルメカ、マヤに関しては全く謎だらけであるが、たしかなことは、あの十字架のシンボルマークはムーから伝えられたということぐらいのものだろう。それはバレンケの各種神殿にも残されていたのである。

▲ティカルの第1号神殿。9層のピラミッドの上部に神殿がのっている。高さ約53m。

十字架といえばあの石棺だけではない。バレンケに残るジャングル中の遺跡「太陽の神殿」「十字架の神殿」や「葉の十字架の神殿」などにも十字形のシンボルが刻まれている。これらに残る神聖文字によれば、この遺跡は古典期後期の初めに相当する7世紀の後半に建立されたことがわかる。その頃のマヤ人にはすでに太古のムーに関する知識も記憶もほとんど消えうせていたのだろうが、聖なる宇宙のシンボルとして石板に刻みつけるだけの”衝動”はあった。あるいは大昔の栄光ある楽園に対してかすかな憧憬をいだいていたのかもしれない。

「碑銘の神殿」の床面から25メートルもある内部のしめった石段を降りて、玄室内に横たわる神秘的な大石板を見た瞬間、筆者は言いしれぬ荘厳な雰囲気に胸を打たれた。この浮き彫り模様は明らかに宇宙の生命を支配する神に対して限りない崇敬の念をあらわしたものだ。宇宙飛行士とはとんでもない話である。筆者が現地で入手した鮮明な大判カラー写真を詳細に調べてみても、中央の人物の両手は何もつかんではいない。頭部のかむり物がヘルメットに見えたとはどういうことなのだろう。これは古代マヤ人が盛装したときの髪飾りなのであり、これに類似した姿は各地のマヤ遺跡の浮き彫りに残っている。石棺の浮き彫りの人物は男女いずれとも判別しがたいが、伝説では女性ということになっている。そういえば頭部の右下に、編まれた長い髪とおぼしきものが垂れ下がっているので、これにより女とされたのかもしれない。しかもこの人は”ジャケツを着ている”のではなく、上半身はハダカであり、はいているのは”半ズボン”ではなく、一種のスカートなのだ。これも古代マヤの娘の盛装時の衣服である。

大地を焼きつくすかと思われる炎熱のバレンケの「碑銘の神殿」のそばで筆者が樹下に憩いを求めていると、フランス人観光団に説明するガイドの声が響いてきた。デニケンがどうのこうと話している。空想と現実のはざまに横たわる大いなる深淵にはらまれる錯誤と危険とを、このときほど痛感したことはない。1人の文筆家の飛躍した仮説がひょっとすると一般大衆に現実離れした夢を抱かせて、そのためにとり返しのつかぬ結果をもたらすかもしれないのだ。たとえばユカタン半島一帯に散在する古代マヤのピラミッドの石段は大体にひどく急傾斜であり、このために年平均20名の転落死者が出るという。ヨーロッパで数千万部を売った”名著”に刺激され、安からぬ費用をはたいて遠い古代のマヤ文明の跡を訪い来たあげく、あの世行きとなってはたまらない。

だがデニケンの勇気と努力を認めるのにやぶさかであってもならない。なんといってもマヤ遺跡 ― 特にバレンケ ― 見学ブ-ムを起こしたのは彼であり、世界の耳目を注目せしめたその功績は大である。

第4話へ続く

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