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新アダムスキー全集

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中央アート出版社
TEL : 03-3561-7017
E-mail :info@chuoart.co.jp
 世界講演旅行 ジョージ・アダムスキー  

第4章 オランダ女王との会見

ブリスベンに滞在中、私はオランダ・ハーグのレイ・ダクィラ女史から手紙を受け取ったが、それは1959年5月にユリアナ女王と会見してくれという文面で、すぐに返事を頼むとあった。私はたしかに手紙を見たということと会見に同意する旨の電報を打った。

4月の終わり頃、イギリス諸島の地方都市の講演からロンドンへ帰ったとき、私がユリアナ女王と会見することになっているという噂が流れていた。電話がかかってきたとき私はデスモンド・レスリーの家にいた。それはある記者が会見のことを確かめようとしてかけたものだった。噂が存在していた事実だけは認めたが、私は何も確証しなかった。

その記者は確証を得るまでは一切公表をしないようにと注意を受けていたので、ユリアナ女王にたいする敬意から、ひとまず確証を待つことに同意したけれども、彼の敬意は明らかに束の間のものだった。

1959年29日付のロンドンのデイリー・ヘラルド紙は次のような見出しのもとに記事を掲げた。

「ユリアナの新しい喜びの種−空飛ぶ円盤」と題して例の記者が次の記事を書いていた。

▲晩年のユリアナ女王

「私はユリアナの秘書官と打ち合わせた。『そうです』とオランダから電話で秘書官は答えた。『陛下はアダムスキー氏に秘密会談を要請されました。それ以上のことは言えません。会談は2人のあいだだけで行なわれることになっています』」

ユリアナ女王との予定された会見について私が記者連に語ったと書きたてているその新聞記事は完全な偽りであった。しかし一つの事だけは確かである。その新聞社は狂暴だということだ。そこの記者連は私から何も情報が得られなかったので、彼らは体面を保つために(おそらく仕事を維持するためだろう)記事を捏造したのである。アメリカ中の各新聞社がこのウソの記事を転載して、それが新聞社間を伝わるたびに註釈がつけ足されていった。

「円盤問題をオランダ語で」と題された5月19日付ロサンゼルスのエグザミナー紙の記事は次のように述べていた。

「各新聞社はロサンゼルスから行ったアダムスキーを冷たく扱っている。たとえばカトリック系の新聞デ・フォルクスクラント紙は言っている。『我々は王宮の線の芝生の上で踊る宮廷道化師に対立するものではない。ただし彼が宇宙哲学者とみなされなければだ』」

デ・フォルクスクラント紙がユリアナ女王との会見をこきおろしてからまもなく、2、3の他のオランダの新聞がこれにならって非難めいた調子で書き始めた。しかし貫禄のある新聞社は次のような正直な記事を載せていた。

「ユリアナ女王、米国の著述家と会見−宇宙旅行について1時間の会談。5月19日ハーグ発。オランダの女王と夫君は今日スーストダイク宮殿において、宇宙旅行に関する数冊の書物の著者アメリカ人ジョージ・アダムスキー氏を迎えた。女王とベルンハルト殿下はアダムスキー氏と約1時間にわたって会談した。その会談は全く有益な性質のものだったことが判明している。女王とベルンハルト殿下はアダムスキー氏と親しくなり、彼の見解を知りたいと願っていた。その会談の出席者は、オランダ王立航空協会々長C・コルフ氏、オランダ空軍参謀長H・シャパー中将、航空医学の専門家でユトレヒト大学のヨングプレト教授、及びマスコミに関する講座を担当しているアムステルダム大学のローイ教授らである。円盤に乗って月の周辺を飛び、金星の住民と接触しているというアダムスキー氏はハーグとアムステルダムで講演中である」

私は称号も地位もない普通人なので、新聞社のなかには私を王宮に招いた女王の権威を疑ったのもあった。しかし真実の統治者または国民の代表者たるものは、最高の消息筋ばかりでなく最下層の情報源からも知識を得ることはできるのである。

各新聞は女王をだまされやすい人だと称して奇妙な物事に熱中したと彼女を非難したが、これは違っている。彼女はただ人生の新しい事象のすべてに興味を持っているだけで、統治者ならば当然のことである。我々はあらゆる物事が変化しっつある時代に生きている。統治者たるものがよく知っていないことには、国民に充分な奉仕をすることはできないのだ。

今こそ私は女王との会見について真相を述べることにしよう。これまでに全然公表されなかった事実である。その会見の際に行なわれた(と伝えられた)質疑応答を引用している各新聞の報道はゆがめられていた。その会見中に新聞記者は王宮内へ入ることを許されなかったのである―。

私はロンドンを出発してから1959年の5月3日にアムステルダムに到着した。レイ・ダクィラ女史と数名の記者が私を迎えに空港へ来ていた。私はスコットランドでひいた風邪がなおも抜けていなかったので、そのことを話してアムステルダム郊外の小さなホテルへ案内してもらった。

翌日の午後私はその夜放送されることになっていたテレビ番組のリハーサルに呼ばれた。これは5月16日のことで、その番組で私はフィルムを公開した。私の談話とフィルムにたいする一般の反応はきわめて良好だった。

リハーサルのあとで我々はホテルへ帰り、荷物を持ってハーグへ向かって出発した。ダクィラ女史が自動車の都合をつけていた。そして真夜中にハーグへ到着したのである。

私のホテルは美しい公園から道路をへだてた静かな住宅地区にあった。最初の日ほ私の休息日になっていたので、その朝私はカメラを取り出し、公園を通り抜けて海のはうへ歩いて行った。あたりをぶらつきながら数時間をすごして風景写真を撮ったりした。

私は新聞社を避けるためにわざとこのホテルへ入れられたのである。記者連は私の宿舎をつきとめることができなかったのでひどくあせり出していた。私の身辺の人々は滞在している場所を口外しようとしなかったし、ホテルの支配人は私が泊まっていることを洩らさないようにといいつけられていた。1日中、夕方まで私はくつろぐことができた。

5月18日の朝、私は朝食をとってからユトレヒト近くのスーストダイク宮殿を訪問するために身仕度をした。宮廷の車が午前10時半に私を迎えに来ることになっていた。これは非公式な会見なので、私の背広はあつらえ向きの服装だった。私は王家の人々の面前での礼儀にかなった作法と振舞とについて注意深く指導を受けていた。私が到着したとき運転手に紹介されたが、彼は私が乗り込むときドアーを開いてくれた。新聞社を避けるために一同は王宮への正規な道路は通らなかった。

衛兵が開いた門を通って車は王宮の庭へ入って行った。彼は私が通ったとき粋な格好で敬礼をした。広場へ入ったとき王宮の前の大通りにはだれもいないことに私は気づいた。濃い潅木で縁どられた曲がりくねった道を行くと大きな入口があった。かねてから与えられていた指示事項のすべてを思い出そうと私の心は夢中になっていたので、王宮の建物が白かったということ以外は細部を見落としてしまった。走り続けるあいだ運転手ほはとんどものを言わなかったが、私がセキをした喉を癒やすために薄荷入りの菓子をくれた。

入口の前で車が停まったのは午前11時だった。制服姿のボーイがドアーを開いて敬礼し、宮殿のドアーへ通じる広い階段まで付き添ってくれた。そのドアーは青い服を着た2人のドアー係の手によって開かれたが、彼らも敬礼した。中へ入ると、一人が私の外套とマフラーを脱がせてくれて、他の一人が天井の高い図書室へ案内してくれた。

私は期待で心がはずんでいたが、女王の前に立ったとき冷静さとなごやかな感じが湧き起こってきた。部屋へ入ってみると彼女と他の人々が立っていた。女王の秘書官が前方へ出て私をユリアナ女王に紹介した。続いてベルンハルト殿下、シャパー中将、ヨングプレト教授、M・ローイ博士、コルフ氏らに紹介された。

女王が紹介を認めたとき、私は例の指示事項のすべてをすっかり忘れてしまったので、続いて行なわねばならない儀礼を思い出すことができなかった。そのかわりに私は自分のフィーリングにしたがって行動して気楽になった。ここには友人間にみられるような歓迎の感じがあったからだ。

女王が私にコーヒーを飲むかと優しく尋ねる。飲むと答えると、美しいデザインの大きなカップにそそがれたコーヒーが出された。その間一同は起立したままである。これがみな済んでから座るように命じられた。このコーヒーは私がアメリカを出てから飲んだコーヒーのなかで最上のものだった!

一同は図書室の一方の端に馬蹄形に並べられた安楽椅子に座った。私の真向かいに女王が座り、その横に殿下、私の右手、殿下の隣りには一人の紳士がいたが、彼は公のスポークスマンの役をつとめていた。私の記憶するところでは、この紳士はコルフ氏である。私の左手にはすでに名をあげた他の3人の紳士が座った。秘書官はこの人々から少し離れて座っていた。

小さな菓子が出されて、一同が茶菓を楽しみ、非公式な会話を交わしながら座っていたとき、私は女王が薄青色のドレスを着ているのに気づいた。男たちは黒服に白シャツ、黒ネクタイを着用している。

タバコが渡された。続いて秘書官が例の話題を持ち出した。そのために私が招かれたのである。彼女は私の2冊の書物に言及し、月の周囲を私が飛んだことについて一つ質問した。45分間しか与えられていないことを知っていたので、私はできるだけ簡単に答えた。

天文学者と空軍参謀長が次に質問した。そして異星人の来訪を否定しようとした。後に思い出してみると、たぶん私の応答は王宮内としては少々不作法であったかもしれない。私は次のように言ったからだ。

「宇宙からの訪問者について実際に知っていることを口外したアメリカ空軍の将官を私はまだ知りませんし、そんな天文学者もほとんどいません。空軍の保持している秘密文書や報告類は大衆ばか
りか政府の高官にさえもまだ絶対に伝えられたことがないというのはだれも知っている事実です。
このことは各国の政府に共通することだと私は考えたいのです」

女王は私の言ったことが正しく理解できたと思う。彼女はうなずいてちょっと微笑したからである。

私は地球の人工衛星が発見した事柄のほとんどは、少なくとも3年前に私の書物中に述べられていることを指適した。

他の惑星の住民について多くの質問が発せられた。私は自分の2番目の著書(『驚異の大母船内部』)に書いたことをふたたび少なからず語った。この会談のおもな質問は大気圏外における地球人の未来に関するものだった。

一同は大気圏外についての会話に興味が増してきたので、時間の経過に気づかなかった。45分間として始まった会見が2時間近くも続いたのである。ついに女王が私の話は1時間以内の予定になっていると注意した。話題についての興味があまりに大きかったので、その注意がなかったら一同は数時間も話し続けたことだろう。

女王が時間のことを知らせたので私は立ち上がった。一同はきわめて友好的な態度で握手を交わした。私は女王と殿下の心のこもった固い握手に深く感動した。殿下のスポークスマンが車のところまで私に同行した。会談のあいだ彼は自分も異星人と旅行してみたいと述べた上、待機している車の方へ向かって階段を降りて行きながらもそのことをくり返していた。

私が王宮の広場を出発するとき、私は大群集が道路の横に立って王宮を見つめているのに気づいた。門を通り抜けると、この群集の多数の人々が親しみの溢れた礼をした。おそらくこれは新聞社が"イヤな"訪問者だと書きたてた、女王と非公式な会見を許された普通人をひと目見たかっただけなのだろう。ホテルへ急いで帰る途中、道路沿いに群集がいるのが見えたが、私が通過すると礼をした。

ホテルへ到着してみると、ハーグでの講演に私を乗せて行くための車が待っていた。女王の運転手がその講演会に出席してもよいかと聞くので、どうぞと答えた。

王宮での長い会談のために、私は講演会場へ20分ほど遅れて到着した。会場には満員の聴衆が待っている。聴衆は私とユリアナ女王との会見に関して好奇心と期待とに満ちていた。特に記者連は詳細に全部を話せと強要した。しかし私にはそれができなかった。なぜなら、王宮での会見は女王が初めに話しかけるまでは、私から話をきり出すことができないほどの威厳に満ちていたからである。私はやっと次のことだけを言った。

「女王は非常に親切でした。もし女王のような人が沢山いれば、この世の中はもっと住みよい場所になるでしょう」。大拍手が湧き起こった。続いて講演が普通どおりに進行した。

講演終了後に記者団が私をとり巻いて質問した。「女王は何と言ったか?」

「最初に話し始めるのが女王の名誉なのです」と私は答えた。これは記者団をいたく失望させた。
記者のなかには質疑応答付きの完全な捏造記事を書いた者もいた。

私がホテルへ帰ったときだれも私の滞在場所を知らないのが有難かった。私はゆったりと休んで、その日の出来事を回想することができたからである。

私の部屋にはラジオがあったので、翌朝私はBBCを出してみた。地元の放送局のオランダ語の放送はわからなかったからだ。『ヨーロッパのニューズ』という早朝番組でソ連の科学者の報告を聴いて私は驚いた。それによると、月は火山灰で出来ているのではなくて、地球によく似た花崗岩の層から成っており、植物のように見える多くの緑地帯が月の裏側に観測されたという。これは私が2時間にわたる会談で女王に語った事柄の幾つかを確証するものであった。

ソ連がいったいどうしてこんな知識を得たのか私は知りたくてたまらなかった。私は友人たちと一緒にその朝遅くまでその可能性について語り合った。私と同様にソ連人が宇宙旅行をするということがあり得たのだろうか。それとも太陽をめぐる軌道に乗ってしまったソ連の月ロケットからこの知識を得たのだろうか(この原稿を書いているときに入った情報によると、どうもソ連はロケットからそれを得たようである)。

昼前に私はハーグ中心街のフォックス・ムーヴィートーン社とのインタビューを承諾してくれと頼まれた。だれかが迎えに来て、私は指定の場所へ案内されるのだろう。それで私は承知した。
                         
選ばれた場所は町の中心の大きなホテルである。私の車はその建物の前の道路わきに駐車した。私は道路を横ぎってホテルへ入るように命じられた。数人のカメラマンが待機していたが、私は撮影の本番に入る前に歩行ぶりを数回練習させられた。ついに撮影が終わると美鈴の縁の付いた大きなガラスのドアーが自動的に開いて私はホテルへ入った。

私は大勢の人から挨拶されたが、そのなかにはホテルの支配人もいて習慣的な儀礼を受けた。これは写真に撮られなかった。撮影機や録音装置の配置してある大きな部屋へ案内された。ここで私はアメリカ産赤バラの花束が置かれた小さなマホガニーのテーブルのそばに座った。私の質問者は右側に座った。彼の最初の質問は「世間は女王が何を言う必要があったかを知りたがっている」である。

女王と殿下は宇宙開発の未来に深い興味を持っていると私は答えた。質問者は私の回答にひどく失望して、会談を詳細に話させようとした。私がことわったので、彼は急に別な質問を次々と発した。そしてそのニューズ映画社との会談は終わった。このニューズ映画は世界中で上映されると聞いたが、私はそれが公開されたという話を聞いたことがない。

面白いことには、私が王宮を訪問したあと、オランダのどこへ行っても私を認めた人から礼をされたが、これはたぶん女王に会った人間にたいする儀礼なのだろう。

5月22日の金曜日に私はアムステルダムの市立劇場の支配人から、"死は大気圏外から来る"というイタリア映画の試写会に出席の招待を受けた。

大気圏外から来た死というのは、ものすごいスピードで地球へ向かって直進して来る巨大な小惑星であった。この小惑星は地球の原水爆の爆発によって空間に吹き飛ばされた岩層のすべてからできたものである。地球人は大恐慌におちいった。いつなんどきそれが地球に撃突して完全な破壊をもたらすかもしれないと警告されていたからである。一方、大津波や大地震が世界各地で大破壊をひき起こしていた。

各国の科学者は世界中の軍隊にたいして原爆ミサイルをその小惑星に向けて一斉に発射するよう要求した。こうして小惑星はもともとそれを造り出したのと同じ武器によって破壊されるのである。
新聞社の代表達がその試写会に出席していた。終わってから、こんな事が実際に起こるかと私は質問された。それは起こるかもしれないと答えて私は次のように説明した。

「稲妻は自然の放電のすさまじい熱によって融合する、目に見えない物質の微粒子から発生する。
地球の大気の上層に吹き上げられた数百万トンの岩層が集まって人工的な小惑星になるのは全く可能なことだ。その岩層の質量が大になればなるほど、付着して来る微粒子群にたいしてそれは大きな吸引力を持つことになる」

核爆発から起こるかもしれない危険は何も放射能や死の灰ばかりではないことをこの映画は私に示してくれた。

メキシコから入った報告によると、1959年8月に発生した大地震の直前に、巨大な火球が山中に墜落したという。また、最近数機の飛行機が宇宙から来た物体に撃突した。生き残った人もいたが死んだ人もあった。彼らは核爆発によって舞いあがった高エネルギーの岩石に衝突したのではないだろうか。

これら人工の小惑星のなかには燃えて光るのもあるので、普通の隕石と間違えられることがあるだろう。このことはこれまでに報告されたある種の火球にたいする解答になるかもしれない。

この章を終わるついでにアムステルダムでの講演に関する一通の手紙の一部分をここに掲げたい。

これはオランダの私の協力者たちに配布されたもので、1959年6月3日付でレイ・ダクィラ女史によって書かれた手紙である。次の通りだ。

「アムステルダムでの講演のあとで、物理学者で、ベルガンの元デルフ大学教授のE・L・セーリゲル教授が演壇に立ち、"われらの友アダムスキー"が私たちにもたらした物事にたいして公然と彼に感謝の言葉を述べました。彼の言葉を次に引用しましょう。『私たちが聴いた事は全部の人にではないにしてもほとんどの方には奇妙に聞こえるかもしれませんが、しかし私たちの目が開いていれば奇妙な物事は毎日起こります。私たちは広い心をもった人間になり、ただいま聴いたお話を有意義にしたいと思います』。群衆は心から拍手をしました。

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