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新アダムスキー全集

 ├ 写 真
中央アート出版社
TEL : 03-3561-7017
E-mail :info@chuoart.co.jp
 世界講演旅行 ジョージ・アダムスキー  

第1章 アメリカからニュージランドへ

1956年の終わり頃、私と協力者たちはメキシコ・ハリスコ州のチャパラで数ヶ月を過ごしていた。全世界から来る手紙類はなおも増え続けている。私が気づいたのは、休暇が終わって米国へ帰った後は、秘書の負担を軽くするために何らかの対策を講じる必要があるということだった。ハイウェーの近くに滞空していたドーム付きの巨大な宇宙船を私が16ミリカラー映画に撮ったのはこの休暇中のことである。

1957年のはじめに私たちはパロマー台地へ帰った。私の秘書はUFOに対してたかまる興味をどうしてもおさえることができなかった。

デスモンド・レスリーと共著で出した私の最初の著書『空飛ぶ円盤は着陸した』(新全集第1巻『第2感星からの地球訪問者』に収録)はもとイギリス、カナダ、アメリカで出版されたのだが、そのころまでには少なくとも12ヶ国語に翻訳されて出版されていた。

空中を飛ぶあの不思議な物体を人々に気づかせたのは私が最初ではない。1947年にケネス・アーノルドが奇妙な物体を報告していたし、フランク・スカリーはその著書『空飛ぶ円盤の背後』の中で、ニューメキシコ州に墜落した円盤の事件を述べている。しかし『空飛ぶ円盤は着陸した』に書かれた私の事件は、他の惑星から来た人間との個人的会見に関する記事として現代最初のものである。

アイルランド系のイギリス人デスモンド・レスリーは、不思議な飛行物体に関する古代の記録類に興味を持つようになった。その結果、彼は数年間を古文書を精査したり資料を集めたりして過ごした。金星から来た人と私との個人的会見がアメリカ西部のある新聞に報道された当時、彼の原稿はロンドンの出版社に託されていた。私の会見は世界のニューズとなり、まもなくイギリスへも知れわたった。出版社とレスリーの両名は私の会見の模様の詳細を求める手紙を私宛によこした。

私は自分の体験について多数の照会の手紙を受け取っていたので、体験の内容を原稿にしておいて、この手紙類にたいする回答としてその原稿を小冊子にするつもりでいた。それでこの原稿をレスリーの出版社宛に送ったのである。すると、私の体験を世に残すために彼の著書につけ加えたらどうかと勧めてきた。これは体験の内容を世人に伝えるようにという異星人の願いをみたすのに絶好の機会であった。

その著書が刊行された後、私はレスリーから次のようなユーモラスな手紙を受け取った。「ジョージ、どういうわけか知らないが、霊媒たちはみな急にインド人支配霊をクビにして、これを空艇(ビマーナ)に乗っている宇宙人ということにしてしまったよ」。これも全く事実であった。

霊界通信におけるこの傾向は、異星人が地球へ来た真実の目的の曲解のはじまりであった。この真実にたいする曲解は日和見主義者たちによってなされてきており、世界のUFO研究界に混乱をひき起こしたのである。そしてこの曲解こそ宇宙の驚異に対する科学的研究態度を妨げてしまったのだ。前にも述べたように霊界通信研究グループはサイレンスグループの手先としてまたとない道具になってしまっているのである。

以上の状態を心に留めながら、我々はまじめな質問にはまじめな回答を与えるべきであるということに気づいた。しかしどうすれば我々はそんな大仕事をなし遂げることができるだろう。

あるコンタクトの機会に私はそれらの問題を異星人たちに話してみた。すると彼らは素晴らしい解決法を教えてくれたのである。簡単に言うとそれは次のようなものである。すなわち、各国の協力者に手紙を出して、彼らが各自の国の読者からの手紙すべてを受け取ってくれるように要請する。かわりに彼らは私から定期的に情報を受け取り、それを複写して関心を持つ人々に渡すというわけである。

これはGAP(Get Acquainted Program)と呼ばれた。協力者たちの手紙は多数の国々の最新の情報を含んでいた。そしてその運動は人々に知らせ続けるために見事に活動した。協力は素晴らしく、その運動は秘書や私の負担を大いに軽くしたのであった。

1958年に私はオーストラリアから1通の手紙を受け取ったが、それによると私が講演を引き受けるならばオーストラリアのグループが私の同国行きの旅費を援助しようとあった。他の国々のグループもオーストラリアの申し出を聞いて同様の計画を求めてきた。

オーストラリアのあるグループの幹部ゴードン・L・ジャミ−スンはブリスベンから手紙をくれて、私が同国から金をもらうのは不可能だと説明してきた。旅客機の料金、ホテル代等のごとき費用の全部は各グループが捻出しなければならなくなるだろうという。このことは各国と同様であることがわかった。

我々の宇宙の友の来訪の真の目的を世界中の人々に知らせるために私がこの機会を利用することはきわめて重大であるという忠告を受けた私は、1959年1月に旅立つことにして話が取り決められた。

そこで私は世界旅行の第一歩として1月13日にロサンゼルス空港を出発したのである。ニュージーランドへの長距離飛行の途中、ひと休みするためにハワイで2日間を過ごすように手筈が整えられていた。これは好都合なことだった。数名の文通者や友人達がハワイに住んでいて、私は彼らに会いたいと思っていたからだ。

飛行機が着陸すると友人たちは出迎えに来ていた。彼らの習慣である"アロ−ハ"という挨拶を受けながら、私はレイを首にかけられた。そのレイがあまり多過ぎたので、実際私はあたりがはとんど見えぬほどだった。

友人たちが「おやすみなさい」と別れを告げたのは深夜のことである。私たちは楽しい時間を過ごし、だれも時刻などは意に介さなかった。ハワイを去る前に要求が持ち出されて、翌日の夕方に非公式の夕食会を開いてその席上で私が話をしたり、興味を持つ出席者の質問に答えたりすることになった。このパーティーは35名ばかりの小さな集いかと思われたが、いざ催してみると2倍以上の人数になっている。こよなく楽しかったディナーのあとで私は短い講演を行ない、それに続いて出席者たちから質問が出されたが、UFOと異星人に関する徹底的な知識に餓えている人々の熱心な反応に私はおどろいてしまった。このことは全旅行を通じて私が訪れた各国でも同様である。

ハワイに2日間滞在中に親切な友人たちは主島であるオアフ島へ私を案内してくれた。私はコーラウ山脈のあいだを走る山道ヌウアヌ・パリを行く途中で映画を撮影した。この美しい道は東海岸と西側とをつないでいる。あの展望地から私はベイ・ヴュー・メモリアル・パークを見ることができた。そこほ真殊湾攻撃の戦死者の埋葬地である。

私が見た異様な眺めの1つはマンキーポット樹であった。この樹木から製材した材木を建築に用いることはできない。その異常なキメのために皿その他の民芸品などを作るのに広く利用されている。

1日のすてきな遊覧から帰る途中、我々はタニャラスを通った。うっそうたる森林地帯と美しい家々のあいだを縫う快適なドライブである。道路の両側の土堤には夜咲きサボテンが生えていた。ホノルル湾の景色は高所から見ると活況を呈している。富裕な中国人や日本人実業家の家屋の東洋風な建築はきわめて美しく、それは一行の通った大通りに並んでいる立派な並木や潅木のあいだから見られた。

時間があまりにも早く過ぎ去ったが、私は旅を続けねばならなかった。空港でニュージーランド行きの飛行機に乗る前に、友人たちは私にもっと時間的余裕があったとき再びハワイへ来るようにとねんごろに勧めてくれた。ハワイでのひとときはきわめて楽しいものであったので、いつかまた休暇を過ごすために行ってみようと思っている。

ホノルルで飛行機に乗り込んでまもなく、我々は次の着陸地であるフィジー島へ向かっていた。ここでニュージーランド行きの旅客機に乗り換えねばならない。ホノルルから出た人はさらにオーストラリアへ直行することになっていた。フィジーに着いてみると、私の旅客機は滑走路に停止していたけれども1時間以上も出発しないことがわかった。この空港の温度は華氏110度もある。まもなく我々はみな濡れたスポンジのようになってしまった。しかし原住民の労務者たちはこの物凄い暑さにも平気なようらしい。カンタス航空は一同の渇きを癒やすためにあらゆる種類の冷たい飲物を出して体を休ませようと最善を尽くしてくれた。

ニュージーランド行きのその旅客機がこの暑い日差しの中でどれほど停止していたのか知るすべもなかったが、乗り込んでみると機内の熱気は息が詰まるほどである。しかしこれは長くは続かなかった。上空に上がってから機体は急速に冷やされたので、今度はみな冷凍される思いなのだーそれで私はトップコートを着なければならなかった。

1月17日土曜日に我々はニュージーランドに入り、オークランドのウェヌアパイ空港に着陸した。北島から来たへんク・(及びプレソダ)ヒヒュンフラー夫妻とUFO研究団体の幹部達が空港で我々の到着を待ち受けている。税関で手続きを済ませて生気を取り戻してから、一同全員で夕食をとり、まもなくみなは親友になった。この人々は私に会って私の講演を計画するために北島の各地からオークランドへ来たのである。次の月曜日に私はオークランドのグループ主催で開かれた歓迎会に招かれた。

オークランドにいたあいだに私は地方のテレビ局から30分間の出演を依頼された。これは当時ニュージーランドにあった唯一のテレビ局である。これは面白い体験であった。この局の装置類や放送の様式はアメリカのテレビ局とまるで違っていたからだ。

私がニュージーランドで直面したただ1つの難題は、私の旅行のために計画された、ぎっしりと詰まった日程である。そこで私は多くの講演会の1つを中止するように頼まねばならなかった。体に無理をさせないようにして残りの旅行を無事に済ませるためである。

1月20日にオークランドから2時間飛んだところにある町カイコへで最初の講演を行なった。カイコへに最も近い空港から小さなバスが一行を町へ運んでくれた。けわしい山岳地帯を通る32キロばかりの距離である。乗客の中にはひどい揺れのために気分を悪くする人たちもいたので、運転手は途中で停車しなければならなかった。そのあと我々はユーモラスな場面を見ることができて、この運転手は円盤のパイロットになればよかったのにと話し合ったりした。

その夜カイコへUFOクラブで会合が開かれた。このクラブは翌日夜の公開講演を開く準備を進めて、最大のホールを予約したのだが、それでも沢山の人が座席がなくて帰った。

私に付き添っていたへソクと私は翌日すなわち1月22日に市公会堂で講演会を開くためにオークランドへ帰る必要があった。22日朝早く我々は荷物をまとめて空港へ出発した。

オークランドの公会堂では2000人の聴衆が席を占めて、切符は数日前に全部売り切れていた。我々が会場へ着いたときは数百名の人々が屋外に立っていた。内部では人々が舞台そでやステージの上にまで座っている。中へ入れなかった人たちのために数個の拡声器が屋外放送装置につながれて、声だけでも聴きとれるように外部に取り付けてある。

翌朝、私はオークランドの一流ラジオ放送局からインタビューを申し込まれた。ニュージーランドのラジオ放送局はすべて政府によって統制されている。それ以外はアメリカの放送局と大差はなかい。ニュージーランドではテレビのプロデューサー、ラジオ放送局、新聞社などみなきわめて思いやりがあり、協力的であった。テープ録音が行なわれたが、私が各都市に到着する前日にラジオで録音放送するために、そのテープを私より早く政府が送ったのである。ニュージーランド以外でこんな親切な国を私は知らない。

ニュージーランド政府は学問の分野で他の国よりもほるかに協力的な政策をとっているように見える。少なくとも私が訪れた他の国々よりはそうである。比較的新しい文化センターとして、ニュージーランドは未来に対する見識を持ち、あらゆる分野の努力を歓迎するらしい。

私は旅行者の入国査証を持ってその国へ入っていたが、講演を行ない、円盤を写した私のフィルムを公開する前に許可証を得る必要があった。官憲は3ヶ月間の許可証を作成してくれたが、それはこの自治領の政府が国民に真実を示してもらうことを望んでいる証拠である。

個人的に講演を依頼してきた向きが多くあったが、具合悪く私はことわらねばならなかった。1つだけを除いて計画された講演はすべてニュージーランドの6週間の滞在中に予定通りに行なった。

ヌアルアワヒアのマヒナランギ宮殿にマオリ族の王を訪問するようにという招待を受けたが、それは私の生涯で最も興味ある体験のひとつとなった。

マオリ族は非常に知的で頭のよい種族である。彼らには偉大な芸術的才能が発達していて、彼らの建築物は象徴的、装飾的両面で多くの変化に富んだデザインで覆われている。

我々一行のなかにマオリ族に知られていない人々がいた。マオリ族の習慣に従って、このために王に謁見する機会を失うことになったが、王は部下の酋長の一人を通じて私がマオリ族に迎えられたことといつでも歓迎される旨の言葉を送ってよこした。

接待係のヒーニ女史が一同を応接室すなわち王の謁見室へ案内した。その部屋はたいそう広くて美しく飾りたててある。全面にマオリ風の模様の入った、床一杯に敷きつめられた絨毯は手織りだ。天井の横桁は手彫りで、着色してあって、?(タルキ)にはマオリのシンボル類が描かれていた。支柱はこまかい葦の手織りのムシロで巻いてあり、美しく模様と彩色が施してある。大きな安楽椅子類が部屋に円形に並べてあった。

外へ出たとき私は他の建築物すべてに施された沢山のマオリ彫刻を見た。軒や門の前面に沿って像を描いた複雑な赤い彫物があるが、これと同じ像が入口近くの柱の頂上にも置いてある。私は建物の外側や周囲の景色を写真に撮る許可を得た。

私が入口の写裏を撮っていた時、6本の白い光の筋が頭上にきらめいた。これはマオリ人たちのあいだに非常な興味を呼び起こした。航跡を残さなかったからである。そして、ヒーニ女史によると、あれは縁起のよいしるしで、たいそう意義深いのだという。

一行がハミルトンへ車で引き返す道すがら空中を飛び交う円盤群はまるで我々を護衛しているように見えた。この現象は他の機会にも起こっていた。そして異星人にとっては彼らの存在を知らせるのに今がよい時機と場所であることが私にはわかっていた。

のちほど1人のマオリ婦人が私を訪ねて来たので、私たちは異星人に関する事柄を多く話し合った。彼女の話によると、数名のマオリ族の少年が円盤に乗せてもらったことがあるという。私は次の講演で彼女の話をくり返し語った。

1959年2月9日付でニュージーランド・ヘラルド紙は、マオリの伝説である"月世界の女ロナ"に関する物語と事実とを私が混同しているという記事を載せた。つまり円盤に乗ったマオリの少年たちについて私が語った話は、実際にほ古代マオリ族の伝説の焼き直しだというのである。この記事はもちろん誤っているが、とにかく講演者の言葉がいかにゆがめられることもあるかという例を示すものである。

続く月曜日に私はワカレワレワのマオリ部落ヘビクニックに誘われた。この温泉地帯では、熱湯、ポフツ間歇泉、泡立つ熱泥などが地中から噴出している。温泉プールの多くは温度が異なっている。調理用、入浴用、洗濯用といろいろある。この熱湯は地表にきわめて近いので墓穴を掘ることはできない。死体はすべて地面の上の棺のなかに放置されるのである。

高温の熱と蒸気はワイロケイの地熱力開発計画により動力に利用されており、近隣各地で熱源として用いられている。地中深く掘られた井戸から轟音を発して噴出する自然の蒸気は凄まじい光景である。私はこの地区で発生する物凄い自然の活動を沢山のカラーフィルムに撮影した。

時間は疾走する。それでまもなく私はこの美しい不思議な国を離れて、ナビアーにおける次の講演会に出発しなければならなかった。

ナビアーに着いてまもなく私は地方新聞に報道された円盤目撃事件に関して記者の訪問を受けた。目撃された物体について私は思いあたるフシが充分にあったけれども、何らかの解説をする前に、円盤を見たと報告した人たちにまず会う必要があると彼に話した。

記者に話したあとでその地方新聞を取り上げた私は次のような記事を読んだ。

空飛ぶ円盤、タウポ湖の上空で目撃さる

(AP)ロトルア発。3名のロトルアの住民が語るところによると、快晴の火曜日にタウポ区の上空高く数十機の円盤が飛ぶのを彼らは目撃したという。この3名は、大気圏外から来た訪問者と会見したというアダムスキー氏とちょうど別れを告げたところで、氏はナビアーに向かう途中であった。

ジョージ・アダムスキー・グループの地方リーダーであるW・ミラー氏が語るところによれば、彼は夫人とN・ウエスト氏とともに午後3時頃タウポの大通りの端にある湖を眺めながら土堤の上に座っていた。

「最初に円盤を見たのはいつか」と問われて、この2年間円盤に興味を持ってきたミラー氏は「昨日だ」と答えた。

「何機いたかはわからないが、同じ物を2度見たのかもしれない」とミラー氏は言う。仰向けに寝転んでいたので、3名とも円盤群の垂直運動を見分けたり高度や大きさを目測することはできなかった。この目撃報告以外にも、ロトルアに流れている噂によると、100名以上のマオリ人を含む多数の住民が先週の日曜日にヌアルアワヒアとハミルトンのあいだで2機のUFOが編隊を組んで飛ぶのを目撃したという。

UFOの目撃事件はいつも大衆の興味を呼び起こすのに適した時機に発生するようである。このことは、ニュージーランド中で行なった講演会のすべてにおいて会場へ入りきれないで場外へ溢れた群集を我々が楽しく眺めた理由の1つであった。

ナビアーの私の講演は1月28日の水曜日に予定されていた。講演の前の数時間を私は美しいナビアーの景色を眺めながらすごした。

町をつらぬいている"マリーン・パレード"と呼ばれる長い公園を私はぶらついてみた。その公園のすてきな特色の1つは、マオリ族の海の乙女"浅瀬のパニア"のすばらしいブロンズ像である。ニュージーランドの大抵の場所にはマオリの伝説上の人物の名前がつけてある。そして神話に出てくる人物が建築物や像などにあざやかに描かれている。

伝説によると、パニアはマオリ族の戦士に恋して陸地で彼と住むために海を捨てた。パニアの家族たちは彼女に恋をあきらめて海へ帰るようにと説得し続けたので、彼女はついに聞き入れて元の住み家へ帰ったという。数マイル沖合にある浅瀬は彼女を記念してその名がつけてある。パニアの像は女性らしい優雅さをたたえた美しい像だ。右足の上に左足を組んで岩の上に座り、上半身は裸である。マオリ族の亜麻のスカートが像の両膝のまわりに芸術的に巻かれている。

この美しい公園で目をひいた別な物はナビアーの市民の手で作られた大きな花時計である。その文字板と数字はさまざまの色合の生きた花でしつらえてある。私は旅行中に同じような時計を沢山見た。すべて大きくて時刻は正確だ。

次に私はナビアーのキーウィー飼育場へ行ってみた。キーウィーというのはニュージーランドの国鳥ともいうべきものである。その習性上夜鳴鳥であるために飛ぶことができず、めんどりくらいの大きさで、体は毛のような羽毛で覆われている。長い曲がったくちばしを持っていて、ほとんど匂いで食物を探すのである。私は柵のなかへ入ることを許されて映画を少し撮影したが、これは困難だった。キーウィーはいつも隅の暗い所へ隠れるからだ。それで飼育係の協力によってやっと撮ることができた。彼は1羽を明るいところへ引っ張り出してくれた。その鳥は奇妙な足どりで屋根のある小舎の暗がりの方へすぐ引き返してしまった。

ナビアーにおける私の講演は、会場の大ホールに立つだけの余地を残しただけで大盛況であった。そのあとでナビアー海軍遊園地の戦争記念館で第2回目の講演会が開かれた。これは100名ばかりのUFO研究団体のために行なわれたのだが、やはり大成功だった。

私の次の講演はニュージーランドの首都ウェリントンにおいて2月1日の日曜日に予定されていた。ここでの講演は市立公会堂の演奏ホールで開かれた。この会場選定は講演に貫録を加えることになった。このために、ふだんならばあまり有名でない場所で行なわれるUFOの講演会などに出席しないような人々も市立公会堂へはためらうことなくやって来たからである。

ウェリントンの講演後、私はオークランドへ帰り、ワンガヌイで予定されている次の講演のために計画をたてた。さらにワンガヌイから私は2月5日の講演のためにニュープリムスへ旅した。ニュープリムスの歓迎会は素晴らしいものであった。私が自分のホテルのロビーで記者を待っていたとき、1人のフランスの女優が私のはうへやって来て、私がどうしてあんなに多くの聴衆を講演に引き寄せるのかそのわけを知りたいと言う。それは聴衆が私という人間に興味をもつのではなく、私が話す話題に興味をもつのだと話してやった。

ある議論の的になっている話題を科学的に取り上げればより多くの人が集まることははっきりした事実である。知的な人々は異星人が霊界通信や神秘主義と何の関係もないことに気づいている。大衆の側におけるこの筋の通った考え方こそ私の著書や講演の成功の原因となる主要素であった。

講演会の夕方、ニュープリムスのホールに人々が集まり始めたのはたそがれてまもない頃である。その前に一度牧師とその信者たちが町の空を巨大な宇宙船が飛行するのを目撃したが、このことは町に大騒動を引き起こし、私が到着したとき住民は宇宙船が引き返して来はしないかとしきりに待ち望んでいた。

私は聴衆に説明して、私はこのような事態をどうすることもできないし、私自身の異星人とのコンタクトさえも自分で計画うすることはできないのだと語った。もし私が自己本位に計画して意のままにコンタクトを行なうことができたら、私は百万長者になっていたことだろう。ぜひ自分たちにもコンタクトをさせてくれといって多くの人が多額の金を私や他のコンタクトマンに差し出したことがあるけれども、もちろん私はいつもそんな願いをことわっている。

北島から南島のクライストチャーチへ向かって出発する前に、私は一般の要望にこたえてリクエスト講演を行なうためにオークランドへ引き返した。

飛行機でクライストチャーチに到着して、私は空港で9名の南島UFO研究グループの幹部達に会った。みな素晴らしい人たちで、親切な方々であった。ラジオの名士として聴取者間に大人気を博している"ハッピ≠フヒルに会う喜びを得たのはこの町でのことだった。この人については私も多くの好ましい事を聞いていたが、噂以上に素敵な人であることがわかった。ヒルは2月10日の私の講演のために司会者として出演し、すばらしい紹介をしてくれた。彼も異星人には大変な興味を持っているようだった。私がクライストチャーチを出発する前に、彼は私を映画に撮り、声を録音してくれたが、これはあとでテレビとラジオの放送に使用するためであった。

私の次の予定地ティマルーでは、政府の役人、スクリーンや映写機類の器具の使用、映写技師等の助力を得た。またニュージーランドを離れたあとで地方のラジオ放送局から放送するためにテープ録音が行なわれた。

続いて私は海岸沿いに南下してダニーディンへ行き、そこで2月15日の日曜日に皇帝劇場で講演をやった。これでニュージーランドでの私の旅行は終了したので、私はオーストラリア行きの飛行機に乗るためにオークランドへ帰った。

ニュージーランドにおける私の講演旅行の成功は素晴らしく、各方面の協力はたいしたものだった。250万のニュージーランド国民は心が開いていて、人生の珍しい出来事を渇望しているようである。私がもし若くて新しい住み場所を選ぶとすれば、ニュージーランドを選ぶだろうと思う。この国には多くの好機会があり、住民は友好的で親切である。

後章でおわかりのことと思うが、訪れた国々の美しい風景を私は充分に述べることはできない。また旅行中に会った多数の友人たちを本書中に全部紹介して讃えることも不可能である。自らを投げ打って私の安泰を気づかってくれた友人たち―。それを書くために各友人の名を列挙したり、彼らの家庭で私を迎えてくれた温かい光景などを述べたりすれば、そのために本書は数巻の書物になるだろう。

とにかく旅行中に私が訪問した各国で、他の惑星群の文明のあいだに地球の正当にして高貴な地位を得るための平和的かつ生産的な方法を求めようと献身している素晴らしい男女に私は会ったと言えば充分だと心から思うものである。この人々の親切さと歓待とを私はけっして忘れることはできない。

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