バーグ氏との会見
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◆バーグ氏が開発した画期的な半重力モーター。 |
この事件におけるコンタクティー(異星人に会った人) というのはヨハネスバーグ (注=南アフリカ共和国トランスヴアール州の商業・金鉱の中心地で南アフリカ最大の都市)のバシル・バン・デン・バーグ氏であった。私はいつもジョージ・アダムスキーを信ずる傾向にあり、このコンタクトも主として問題のアダムスキーの象形文字に基づくものなので、個人的・バン・デン・バーグ氏に会うことに熱中していた。
2人は文通を始めたが、私は彼の謙虚さ、誠実さ、率直さに感銘を受けた。ついに第一回の会見に相互の都合のよい日がとりきめられた。1962年8月2日、木曜日の朝、会見のためにヨハネスバーグのエロフ街を歩いて行くときの私の感情と想念を説明するのは困難である。ある町角に接近したとき一人の背の高いすらりとした親切そうな目付きの男が、流れゆく買物客の列を見つめているのに気づいた。それがバシル・バン・デン・バーグだった。そのコンタクト実話が南アフリカで大センセーションを起こしたが、ついには星々への道を切り開くかもしれない魔法の公式を持っていると称するその男と私は握手した。
会見の模様
二人はすぐに好都合な喫茶店を見つけて静かな場所にすわった。私のカバンの中には一冊の『空飛ぶ円盤評論』誌が入っているが、それにはアダムスキーの象形文字と驚くほどよく似た象形文字の刻まれた玉石を北部ブラジルで発見したというマルセル・オメ教授の驚くべき記事が載っている。(注=本号18頁の記事を参照)
私は相手がふくらんだ折込カバンと奇妙な肩かけカバンを持参しているのに気づいた。彼はそのふくらんだやつを調べてみろといって私に渡した。それはアダムスキーの象形文字を解読して発明したモーターの一部分である。その物体は鋼製らしい。私がその重量と"生きているように見える"事実を口に出すと彼は微笑して言った。
「それが生きていることに気づいて下さってうれしいです。ほら、ここに磁石(複数)があります!」
それから彼はきわめて詳細にその重要性を述べて、明らかにその製作に関係あるぼう大な量の仕事を示すファイルを開いた。そこには数百の三角形のような図面があった。私はいかにもわかったような顔をしてしばしば偉そうにうなずいたが、同時に相手をあわれんだ。科学的なわけのわからぬ言葉がこちらの無理解な耳に響いてくるからだ。私は思った。
バシル君、キミは救われないやつだなあ。そんなこたあおれには何の意味もないよ!
彼はわかっていたにちがいない。突然次のように尋ねたからだ。「それであなたがあれほど見せたいといっていた雑誌には何が載っているのですか?」
ブラジルの象形文字に関するオメ教授の写真を見せたとき相手の反応がどうなるだろうかと思った。彼は瞬間呆然となって叫んだ。
「こいつは驚いた!全く奇怪なことだ!図形がさかさまになっている。だがこれをごらんなさい!」
彼はアダムスキーの金星文字の2枚のプリントを取り出した。それは、アダムスキーの書物に掲載されている写真をすばらしくきれいにしたものであることがわかった。続いて彼はアダムスキー写真とオメ写真とを比較して、多くの類似点を興奮して指摘した。 二人のお茶はもう冷えていたが、それどころではない。
「この雑誌を私にゆずって下さい。拡大鏡でもっと調べたいんです」と彼は懇願した。
「喜んでゆずりますよ。だが時間がきた。ステム誌の人たちを待たせるわけにはゆかない」。 同誌も私がヨハネスバーグに来たことを知っており、我々2人とインタビューしたがっていたのだ。
ステム誌の事務所へ急ぎながらバン・デン・バーグ氏はアダムスキー写真の立体的な内容と、拡大鏡で文字を調べるたぴに新しい意味を発見した様子を説明した。「与えられた細目のすべては無限であるように思われます。アダムスキーの写真に彼らの意味を含ませることができるとはこの金星人たちはすばらしい科学者であるにちがいない。私は符合を解読するのに昼夜努力しました。たびたびやめようかとも思いましたが、こつこつと続けてやっと難儀な仕事に成功したのです。
まもなくモーターを作りました。すベての細目はそこにありました。最初のモーターが準備できた日を決して忘れません。完全に作動しました。その日は私の誕生日でした。それからかプラザーズ(異星人)に出会ったのです」 二人はステム社に近づいたのでそれ以上に詳細を聞こうとはしなかった。地下から印刷機の音が聞こえてくる。私は30年前に自分が印刷所で働いていた頃を思い出した。当時は罪な空飛ぶ円盤など知られてはいなかったのに。
やがて2人は広々とした事務所へ案内された。型どおりの紹介の後、私は非常な不安をもって席についたが、そうはいうものの円盤とそれを操縦する人たちを防衛する立場に立つことを名誉に思った。心配する必要はない。私はまじめな友人たちの集まりの中にいる。彼らも"信ずる人"なのだ。
それは面白い体験で、インタビューは3時間近く続いた。またもオメ教授が議論の的になり、私の貴重な専門誌がもう一度持主を変えることになった。翌日の日曜日に掲載される記事に写真をつける必要があるからだ。
このステム社の人たちが示したように、あらゆる新聞のあらゆる編集者が円盤、特にその専門誌に興味を示してくれればよいがと思う。
うれしかったのはインタビューのあいだバン・デン・バーグ氏が私の意見や評言を支持してくれたことである。
アダムスキー氏の真実性
また私はこのおだやかな気取らない"やり手"がステム編集陣から明らかに尊敬されているのに感動した。
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◆パロマーガーデンズの入り口。1952年12月13日に飛した円盤は、中央道路の曲がった部分の位置あたりにネガホルダーを落としたと編者は聞いている。そのあと円盤は超低空で写真中の彼方の家の上をかすめて、さらに後方の丘の上を越えて青空へ飛び去った。この家は近年建てられたもので、当時はそこに古い家があり、アダムスキーの助手のべ−カー適役空軍軍曹か住んでいて、円盤が接近した時に撮影した。その写真は新アダムスキ-全集第一巷「第二惑星からの地球訪問者」に掲載されている。
撮影/久保田八郎 |
数時間後私はバン・デン・バーグ氏をバスまで見送ったが、ついにコンタクトの件については語らなかった。読者に想像してもらうには彼の手紙を引用するより他に仕方がない。
「現段階ではっきりさせたい点は私とプラザーズとの会見に関して生じたステム誌編集者による誤解です。最初のコンタクトではプラザーズはただ象形文字の解読において私を正しい軌道にもどそうとしただけでした。5年たってから私は動揺し混乱していたからです。その5年間にモーターはすでに完成していました。」
「2度日のコンタクトは短時間で行なわれ、第1回目のコンタクトを確証しただけです。うわさとは違って、プラザーズは自身のスケッチを持参したのではなく、また象形文字の解読を全然助けてくれませんでした。くり返します。プラザーズはただ従うべき正しい道を指摘しただけです。私は正道からはずれていて、自分の感情に頼ってプラザーズとのテレパシツクな交信力を失っていたからです。それがプラザーズの来訪の唯一の目的でした。」
「それ以来私は多くの解決をなしとげ、自分自身の努力によってばく大な知識を獲得しました。プラザーズは"感情による妨害"の愚かしさを教えてくれ、以来私は感情に対しては警戒的となり、こうして互いのテレパシー交信径路を確立させたのです。」
「私の目的はアダムスキー氏の真実性と、あの象形文字はこの世界のものでないことを万人に立証することにあります。私は象形文字のことを隠したまま『あの発明は自分一人でやったのだ』とウソをつこうと思えば容易にできます。そうすれば地球上のだれ1人としてそのウソに気づかないでしょう。アダムスキーでさえも!」
私は常にジョージ・アダムスキーを信じていたが、同様にバシル・バン・デン・バーグをも信ずるものである。
編者注
バン・デン・バーグ氏が円盤のモーターと同様な重力を遮断する画期的な2個のモーターを発明したのは1962年頃のことで、それは金星文字を解読し、更に金星人とコンタクトしてアドヴアイスを受けたためであるといわれる。このモーターは磁石(複数) で作動するもので、外部からの電気エネルギーは必要としないという。
彼はこれを1963年に米国へ持って行き18カ国の科学者団に公開する予定であったが、その前に謎の失踪をとげた。何者かに拉致されたという噂もあるが、詳細は不明である。発表するなというアダムスキーの警告を無視した結果ともいわれている。 |