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◆愛犬マルアイを抱くマルセル・オメ教授 |
マルセル・オメ教授
オメ教授の名がUFO研究界に急速に浮かび上がってきたのは、教授がUFOに関心を持つようになったからではなく、ブラジルの秘境を探検した際にアダムスキー問題と重大な関係のある不思議な古代の文字と図形を発見したからである。この事件はかつてイギリスの『空飛ぶ円盤評論』誌にも報道されたし、各国の研究界でも話題となり、論議の的となったが、一万数千年をへだてて同じような図形が存在したという事実は、アダムスキーの体験の真実性を裏付ける有力な証拠となるように思われる。
オメ教授は1897年にフランスで生まれた。アルジェリア北部のアルジエ大学で考古学を学んだあと、母校でアラビア古典を教えていたが、その後ブラジルヘ渡ってサンパウロに居住するかたわら各種の科学団体のメンバーとなり、同市のアメリカ人博物館の館長となっている。その前にはアフリカ大陸で15年間をすごして、地中海沿岸諸国の古代の遺跡を調査した。
また教授はピグミー族も研究し、サハーラ砂漠の有名な岩石彫刻紋様等も研究した。1940年にはアメリカ、ハイチ、ベネズエラ経由でブラジルヘ行き、ついにそこへ落ち着いて、南米の考古学センターからアマゾン河流域の広大な地域を探検するように命ぜられた。そこで彼の輝かしい探険家としての一大業績が打ち立てられることになる。
実際彼はブラジルの大未開地の神秘的な古代の遺物を組織的に発見調査した最初の科学者であるが、彼自身はこのブラジル北部一帯を、一万数千年前に海中に没した失われた大陸"アトランティス"の一部であると確信していたのである!
南米奥地の決死の探検
1949年の秋、オメ教授は夫人、愛犬の"マルアイ"その他数名の従者とパーティーを組んでブラジル北地を目指して探検に出た。もちろんこれが最初ではなく、この他にもアマゾン河流域一帯を踏査しているが、これはそのなかの一部分である。場所はブラジルの最北端、ベネズエラと英領ギアナとの国境地帯で人跡未踏の秘境である。
一口にブラジルといっても非常に広大な国土であって、人踏未踏地は至る所に存在する。教授一行の前進路には多大の困難と危険が待ちかまえていたが、愛犬のマルアイが再三教授を危険から救出して事なきを得るということがあった。
目的地はブラジル北部の奥地とはいうものの、直線距離といえば北方の英領ギアナの海岸町ジョージタウンから500キロばかりの、大アマゾンの支流であるプランコ川の上流のゴチンゴ川流域地帯である。このあたりは平野であるが、北側にベネズエラからギアナにかけてパカライマ山岳地帯が巨大な壁をなしているので、北側からの侵入は容易ではない。
北端のゴチンゴ川流域にはセルラ・ド・ソル山(太陽の山の意)の高さが2500メートルもあり、その他1000メートル級の山が沢山あるからギアナ側からは簡単に入れないだろう。
大奇岩ペドラ・ピンターダ
一行がタラメという所へ来たときその付近に"ペドラ・ピンターダ"という巨大な一つ岩があるのを発見した。ペドラ・ピンターダとはポルトガル語であって「色を塗った岩」 の意味である。その名の示すとおり、この岩には赤く塗ったドルメンがあちこちに付属している。岩の高さは30メートル、長さ100メートル、奥行き80メートルの花崗岩で、太古の文明の印象的な遺跡として広漠たる平野の中にそびえ立っている。
岩の表面には600平方メートルにわたって奇妙な紋様や図形が刻まれているが、まだ解読されてはいない。岩全体が人間の頭がい骨のような形をした大タマゴ型である。オメ教授自身はこれを「アトランティス文明の石の書物」と呼んでいる。すなわちこれは失われた大陸アトランティスの巨石文化の遺跡の一部であって、現在の文明と は全く関係のない物であると教授は考えているのである。
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◆巨大なぺドラ・ピンターダの奇石 |
このペドラ・ピンターダヘ来たとき豪雨に見舞われて一行は岩の内部へ入り込んでここで一夜を明かすことにした。一同が通路を通っているうちに偶然発見したのが"埋葬の洞窟"と"骸骨の洞窟"である。この後者においては多数の人骨が発見された。恐怖すべき一夜であったと教授は述べている。
岩の内部の探検は興味深く、あちこちに小洞穴群や赤い色を塗ったドルメン(2〜3個の石の脚の上に平たい石を載せたもの)があり、儀式に使用したと思われる演壇も数カ所あった。明らかに太古の文明の人間が聖なる場所とした形跡が残っている。
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▲オメ教授がベドラ・ピンクータで発見した不思議な文字と図形。 アダムスキーの金星文字と酷似している。 |
古代の金星文字か!
さて、マルセル・オメ教授のこの探検行における最重要な発見物はこのペドラ・ピンターダそのものではなく、ペドラのすぐ隣りにあった小さな奇妙な図形である。これはある石器に刻まれていたもので、多年風雨にさらされてかなり磨滅していたために教授はさほど気にとめなかったが、一応参考資料として写し取ったのである。
しかし後になってオメ教授みずからアダムスキーの最初の著書『空飛ぶ円盤は着陸した』を読んだとき、飛び上がらんばかりに驚いた。なんとそこには教授が持ち帰った紋様とほとんど同じ種類の紋様と図形が金星人から与えられたものとして掲げられていたからである。
この点については教授は「私はアダムスキーの書物を読むまでは、あの紋様についてほとんど関心はなかった」と述懐している。アダムスキーが『空飛ぶ円盤は着陸した』を出したのはオメ教授が著書『太陽の子ら』を出す前であったから、アダムスキーがオメ教授の発見を知っていたわけはない。
重要な証拠
両者共互いに未知の人で、事前に連絡が行なわれた事実はないのである。これはアダムスキーの金星人メッセージが事実であったことを立証する重要な傍証であって、しかも「いずれ地球の土中からこれと同じような紋様の発見が報告されるだろう」と語った金星人の言葉を裏付けることにもなる。そして1万4千年の太古にも別な惑星の人間がこの地球に来ていた事実を証拠立てることになるのだ!
アダムスキーが金星人からネガフィルムに記されたメッセージを受け取った模様については新アダムスキー全集第一巻『第二惑星からの地球訪問者』に出ている。
オメ教授の紋様(上の図)とアダムスキーのそれとは象形文字が完全に同一ではないが、レンズ形の断面図状の図形とその中に描かれてるスワスティカ(まんじ)は、フリーハンドで描かれているために多少のゆがみはあるにせよ、同一である。しかも両方共スワスティカの中心部に小円が画かれている。
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▲アダムスキーが受け取った金星文字 |
前述のとおりこの事件はUFO研究界で大問題となった。そして疑う人のなかには、アダムスキーとオメ教授がグルになって打った芝居であるといって非難する人もいた。これに対してアダムスキーもオメ教授も全く相手にしていない。ただ教授の方が積極的にアダムスキーの体験の真実性を支持しているだけである。そのことは過去の『空飛ぶ円盤評論』誌に大きく掲載された。
オメ教授によると太古において空を飛ぶ機械を用いていた偉大な文明がこの地球上に存在したという。ジャイアント・バード(巨大な鳥)を持つ人々がこの地上に存在した時代があった。その巨大なシンボルは今なおペルーやアンデスの高地に刻まれていて、翼の両端間の距離が150メートルに達するのがある。これは非常な高空からでないと見られない。平たい地面または岩に刻まれたこのシンボル類は、宇宙旅行や空中戦をやった人々のシンボルとみなしてよいだろう。
「私は大西洋沿岸の国々の口碑伝説や伝承詩などを研究したが、すべて巨鳥の伝説が確実に残っていて、それらは空中で火を噴いて大地を破壊しながら絶滅してしまった」と教授は述べている。
ともかく紋様の発見は高度な考古学者によるものであるから、アダムスキーもこれを重視して著者で述べているほどだ。異星人は途方もない年代差と地球の各地とを結ぶ範囲で深遠なプロジェクトを太古から樹立していたのではないかと思われるのである。
ー終わりー |