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 第4章 古代の宇宙船 第1話 宇宙よりの訪問者/ロイステマン
 

1000機以上の不思議な物体が、12ヶ月の長期にわたって、スウェーデンの上空に出現したと報告された。 これは、本質的に異常なことである。もっと異常なのは、この事件が1946年に発生したということで、これは空飛ぶ円盤が世界の新聞の見出しを飾った前年である。したがって、これは群集ヒステリーと片づけるわけにはいかない。ただし、スウェーデンの新聞がこの事件を取り上げたので、物体群は、“幽霊ロケット”として知られるようになった。

物体群は通常夜間に見られ、尾部からオレンジ色の炎を放射している葉巻型物体だ、と述べた記事もあった。

▲古代エジプトの宇宙船。
▲古代エジプトの宇宙船。
1948年のアメリカのSF雑誌から採ったもので、デニケン以前の見解である。 不思議な飛行物体については、1947年にアーノルドが見たずっと以前から報告されている。 目撃者は、旧約聖書の予言者からカンザス州の農夫まで、まことにとりどりである。その中には、大西洋を航毎したクリストファー・コロンブスまで含まれている。

7月9日から30日までの短い期間だけで、スウェーデン陸軍は600件以上の報告を受け取った。そのほとんどは、夜空を急速に動く色光体だというのである。

このUFO事件は、当時、アメリカとスカンジナビアで、重大な関心を呼び起こした。 ドイツのソ連占領地域にいるドイツ人科学者が、新秘密兵器を開発して、テストしているのではないかといわれた。 これ以前の第二次大戦中でさえ、主として夜間にUFOが見られた、という報告があった。 敵味方いずれの側もこれに悩まされ互いに相手が秘密兵器を開発したと思っていた。 UFOに遭遇したイギリスやアメリカのパイロットによって、それは“フ一戦闘機“と名づけられた。 パイロットが受けた印象では、この小さな色光体は、知的に操縦されているように見えたらしい。

フ一戦闘磯の報告が洪水のように出始めたのは、1944年の11月ごろである。 ストラスブ一ル北方のライン川上空を飛んだ夜間戦闘機が、遭遇したのだ。その報告の典型は、デービッド・マタフォールズ中尉か提出したものてハロルド・ウイルキンズの著書『月から来る空飛ぶ円盤』に掲載されている、次の報告である。

▲ジュール・ベルヌの『雲の快走飛行艇』(1886年)のさし絵。主人公のロビュールは素性のはっきりLない男だが、ばく大な富を持っている。 彼は大飛行船を建造し、世界を旅して、信じがたい冒険を次次と試みる。 当時の技術に通じていたベルヌは、ロビュールの飛行艇を飛行船と海上航行船を組み合わせて明りょうに描いた。
▲ジュール・ベルヌの『雲の快走飛行艇』(1886年)のさし絵。主人公のロビュールは素性のはっきりLない男だが、ばく大な富を持っている。 彼は大飛行船を建造し、世界を旅して、信じがたい冒険を次次と試みる。 当時の技術に通じていたベルヌは、ロビュールの飛行艇を飛行船と海上航行船を組み合わせて明りょうに描いた。

「午前6時、ハーゲナウ付近の高度3000メートルで、2個の強烈に輝く光体が、地上から我々のほうへ向かって上昇した。 光体は水平飛行に移って、わが機の背後に来た。 それらは巨大な、輝くオレンジ色の光体であった。 2分間ほどずっと背後から追跡したか、完ぺきな操縦をしていた。 やがて光体は離れて行き、炎は消えたように思われた。」  

他のパイロットになると、もっと信じがたい遭遇事件を報告している。 フー戦闘機は、ときどき追い抜いたり、並行して飛んだり、後退して追尾したりした。 パイロットが急速に飛行コースを変えても、火の球は背後にぴったりとくっつき、ある場合は1時間15分間も追跡してきた。 これは戦時中のことで、したがって飛行機側はライトをつけていなかった。 だからフー戦闘機は、確かに飛行機の反射ではない。

2年後に、スウェーデン上空で見られたこれらのUFOや幽霊ロケットが、 敵の開発した秘密兵器と見なされたのはうなずけることである。

しかし歴史は、これらがいずれの側にも属さなかったことを示しているし、また、UFOなるものは人間が過去を記録しえた限りの期間、またはそれ以前にも、人間とともに出現したことを示している。 その結果、“ユーフォロジスト”―これはUFO研究家の俗称である―は、歴史書を巧みに応用して『聖書と空飛ぶ円盤』『神が円盤を操縦する』『時代を通じての空飛ぶ円盤』などの題名のもとに、多数の書物を書いてきた。

▲1907年にテスト中のイギリス最初の軍事用飛行船。
▲1907年にテスト中のイギリス最初の軍事用飛行船。イングランド、ファーンバラ付近に停泊している。20世紀初頭としては、最も技術的に進歩した飛行船であった。なお、当時、各地から出たUFO目撃報告は、たいていの場合、それが飛行船に似ていたと述べている。

もし現代の科学が、レーダーや写真による証拠をもってしても、UFOの実在を証明することができなかったとすれば、古い記録を引っかき回して捜しても、証拠は見つからないだろう。 目撃者たちは、もう質問されることもないだろう。 彼らが話す体験談や目撃事件は、通常かなり面白いけれども、今の遅れた段階で確認を可能にするほど詳細なものではない。 しかし、たいていの事件で我々は、多数のUFOに対する説明として、人工衛星、航空機、その他現代の輝かしい科学技術の産物を除外してもかまわない。 最も注目すべき初期のUFO出現時代は、1896〜97年である。このころアメリカ各地で飛行船に似た物体が多数の人に目撃された。

▲16世紀の木版画に示された空中の黒い球。 これは1566年8月、スイスのバーゼルで見られた。 5年前ニュルンベルクに現れた、真赤な丸い物体に似ている。
▲16世紀の木版画に示された空中の黒い球。 これは1566年8月、スイスのバーゼルで見られた。 5年前ニュルンベルクに現れた、真赤な丸い物体に似ている。

それらは通常、葉巻型といわれ この空中よりの来訪者から、しばしば地上をめがけて強力なサ−チライトか放射されたと伝えられている。 たいていの目撃者は、人工建造物だと推測した。 しかし、飛行船は確かに設計の段階にあったけれども、当時すでに空中を飛んでいたという証拠はない。

この19世紀紀の空の来訪者が、驚くような大見出しを新聞に掲げさせたのは、もっともなことである。 たとえばカンザス州の農夫アレグザンダー・ハミルトンは、今日でさえトッフ記事になるような目撃事件を報告している。1897年4月19日、午後10時30分、彼は家畜の物音に目をさました。 調べようとして出てみると、「家から200メートルほど離れた家畜囲いの上に、1台の飛行船がゆっくりと下降しているのが見えた」のである。 彼は息子と小作人を呼び、3人はおのを持って走り出した。 飛行船は、そのとき地面から9メートルの位置に停止していた。 それは葉巻型で長さは約90メートルあり、透明な、強烈に輝くゴンドラがついていた。口供書の中でハミルトンは、その飛行船は「自分がこれまでに見たこともない、奇妙な人間を6人ほど乗せていた」と報告している。

彼らは、光線を直接ハミルトンのほうへ向けた。 続いて、直径約9メートルの大きなタービン車がブーンと音を立てて、ゆっくり回り始め、「飛行船は烏のように軽く上昇した。」

飛行船は、推定約90メートルの高度に達したとき、停止した。 そして太い綱が2歳のメスウシの首に巻かれているのが見えた。 すると乗船者たちは、それを引っ張りあげ始めた。 目撃者たちが驚いて見つめるうちに、飛行船は上昇した。 翌朝、ハミルトンは自分が見た光景を信ずることができず、家畜を調べに出かけた。 そしてわかったのは、隣の農夫がハミルトンの農場で、殺されたメスウシの皮や頭や足を発見していたということだった。

ハミルトンは、次の言葉で報告を終えている。

「あいつらが悪魔か天使かおれにはわからねえ。だが、おれたちはみんなあいつらを見たんだ。 おれの家族も、みんな飛行船を見た。 もうあんなやつらに我慢はできねえ。」

カンザス州の『コロニー・フリープレス』紙は、間もな〈次のような記事を載せた。

▲サンタ・マリア号の甲板に立つクリストファー・コロンブス。
▲サンタ・マリア号の甲板に立つクリストファー・コロンブス。新世界を見る前夜、彼は遠方にきらめく光体を目撃した。そこで乗組員の1人を呼び、一緒にそれを見させた。 光体は消滅したが、その夜は数度再出現したという。

「フリ−プレス紙は…・‥今や次の意見を持っている。 その飛行船は、この世のものではなく、おそらく火星から来た科学者の一団が操作しているものであり、彼らは楽しみに出かけたのか、それとも科学的な目的で太陽系の調査旅行に出たのであろう。」 

火星人は19世紀においてすら、こうした事件の原因と考えられたのだ!

メキシコの大文学者ホセ・ボニリャは、1883年8月に、ただ一人でUFOのショーを楽しんだ。 彼はサカテカス天文台で、太陽黒点の活動の写真を撮っていた。 そのとき、太陽の表面を横切る不思議な物体群に気づいたのである。雲によって視界がさえぎられるまでの2時間、彼は283個を数えた。東から西へ移動する物体群は、明らかに光っていた。 ボニリャは、物体の撮影に成功した。 これはおそらく史上最初に撮影されたUFO写真だろうが、現代の解釈と同様に、その連続写真も、物体の正体解明には役立たなかった。

他のいくつかの天文台も、その物体群を見たといわれている。 これは、物体群が地球の大気圏外にいたことを示すものだろう。高名なフランスの天文学者、カミ一ユ・フラマリヨンが、その写真頬を見せられたとき、仮説として、それらは昆虫か鳥、またはちりではないかと言った。

19世紀は、ルイジアナ州バトンルージュでの印象的な目撃で始まる。 1800年4月5日の夜、「大きな家ほどもある」1個の物体が、地上約180メートルの高さを通過した。 それは強烈に輝いて、地上で感じられるほどの熱を放ち、北東へ消えるまでに15分を要した。

第4章 第2話へ続く

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