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 動物たちは知っていた!-山津波の襲ったあの夜- 第2話

NewsLetter No.67 より

1963年4月には新たに水位を上げるテストを実施する時期が熱したように思われた。そのときにはすでに新たな要素ができていた。

危険になってきた!

サーデ会社およびそのほかたくさんの民間水力電気会社がエネル(エソテ・ナチョナーレ・ベル・レネルジーア・エレットリーカ)と称する新設の国家電力委員会のもとに強制的に国有化されていた。排水門のせき止め弁は閉鎖され、再び水が注ぎこまれた。

水位が次第に高まってくるにつれて、例のがっかりさせられるような徴侯が、いろいろ現れはじめた。トック山の高いところに、またギョっとするような亀裂が生じたし、7月から9月にかけて、小さな地震が幾たびかその地方をゆすぶった。また地下の奥深くからとどろくような妙なうなり声が聞こえたし、湖水の水は「ぐらぐら煮えたつ」ような不吉な騒ぎ方をした。

これより先にサーデ会社は山の側面数十ヶ所に見張り代わりの水準基標を建てておいた。髪の毛一筋ほどの動きの違いさえとらえるほど感度の高い光学装置によって、休みなしに見張られているその基標は、万一、土がすべり落ちそうな気配をみせたら、どんなわずかな気配でもそれを信号で知らせるはずであり、また事実信号を送っていた。数ヶ月間異常を伝えなかったその基標が、突然トック山の側面の土がだんだん大きくすべり出す気配を見せたことを伝え、それが24時間ごとに6、8、12、21ミリとますます大きくなり、ついに40ミリという最高の”危険示度”まで上がった。それがそれより3年前最初の地すべりのさい記録された示度である。

エネル・サーデ会社はあわてて、まだ満水時より12メートル下になっていた水面を上げるテストを中止した。それで土が落ちつき、あらためて安定してくれるものと思いこんでいた。残念ながら土は安定してくれなかった。しかもさらに困ったことには、平年時の3倍という20年来なかったほどの降雨量のために、土が異常なほどまで、水びたしになってしまった。

エネル・サーデ会社の技術面の指導主任代理ニーノ・A・ビアデーネに、そのときベネチアの本社から、たとえ許可されていてもこれ以上水位を上げるようなことは論外であると申し渡してきた。それどころか、もし危険信号があくまでつづいたなら、本社はさらに水位を下げる命令を出すつもりだと言った。

事実信号はつづき、危険はますます、ひどくなってきた。そこで9月26日 ― 災害に先立つ13日前 ― ビアデーネは「放水せよ!」という緊急命令を出した。直ちに壮大な排水門のバルブが開けられ、水は流れ落ちはじめた。しかし放水の速度は早すぎないようにと指定された。なぜなら、もし早すぎれば水の滲みこんでいるトック山の土を支える落下水緩衝地がいち早く移動して、土をさらにいっそう不安定にしてしまうからである。経験と幾回かのテストの結果、”安全な”排水速度として、24時間に1メートル以上水位を下げないことに決めてあった。この速度なら、第19回目のテストで”絶対安全”の水位と発表されたところまで水位を下げるのに10日かかるはずである。

あわてさせられたのは、水位を下げても少しも安全性が加わらないことであった。事実水位が下がっていくにつれ、水準基標の示す地すべりの危険はかえって上がっていき22、30、36、ついに10月3日には40ミリという前どおりの危険水準に達した。

警告を無視すれば

これこそひどいジレンマである ― 水位を高くしておくことは危険のようだし、そうかといって水位を下げてもやはり危険だったからである。当事者側は放水はつづけるが、もっと速度をゆるめてやるという折衷策を取った。以前は水準基標は昼のあいだしか読めなかったが、今ではその警告信号は非常に重大な影響があるので、大がかりな投射照明設備がもうけられて山腹全体を照らし、望遠反射鏡をとりつけたその示標は夜どおし読めるようになった。

10月8日の火曜日 ― 災害の1日前 ― になると、状況は急速に悪化した。

地すべりは今では24時間に150ミリまで上がり、なお上がりつづけていた。ビアデーネは猛烈な活躍に1日を過ごした。湖畔地区には隅から隅まで警告の通告が大急ぎで回され、その通告の中で市長は全住民にたいして、家族や家畜を引越させるため、同日午後4時にエネル・サーデ社のトラックがたくさん来るから、それを利用して退去するように、とせつに勧告した。警官は退去を強制し始めた。

その夜ビアデーネは疲れはて、意気消沈してベネチアに戻ったが、湖水周辺の危険地帯から1人残らず住民は退去したものと確信していた。実際は200人ほどの人が退去の警告を無視して警官の目をかすめ、その報いに24時間とたたないうちに命を落とした。

そしてロンガローネの町はどうなったのだろう? ビアデーネがあとで証言したところによると、彼はそれまでダムの下の住民たちのことについては、少しも心配していなかった。実物模型で行った幾回かのテストは、1メートル半そこそこの無害な水しか、ダムからあふれてピアーべ川にこばれ落ちないと証明してくれたではないか?

楽しい日だったのに

翌日ロンガロ−ネの町はすばらしく楽しい日であった。農作物の収穫は大体すんでしまい、その年の商売の景気はよく、新しい工場がぞくぞく建ちはじめていたし、ダム見物に来る観光客の数もますます増していたからである。なかでも1番商売で成功したのは、ロンガローネの有名なアイスクリーム製造業者たちで毎年3月にはうまいものをこしらえて売るために、ヨーロッパじゅうに散っていた彼らも、今は家族といっしょに冬を過ごすために、ぞくぞく家に帰って来ていた。季節は帰郷や縁結びと結婚などの楽しい時期であり、クラブの役目をつとめるバー兼カフェで、古い友だちと会ったり、ぶどう酒を飲みかわしながら今期の商売の話をし合う楽しい時期でもあった。

上にある大ダムが一種の暗い影を、その陽気なお祭り騒ぎに投げかけていたことは事実である。地すべりの率が今日は高くなったといううわさも、いつとはなしに漏れていた。アントニオ・サビというトラックの運転手はトック山の上の舗装道路をトラックで越えたが、道路がとても湾曲しだしていたので、もう2度とそこを通るのはいやだと言った。しかしそんなことは、今では珍しいことではなかった。

数百人の男たちはその晩はいつもより遅くまでバー兼カフェでねばっていた。彼らは熱烈なサッカーファンで、9時55分にスペインのレアル・マドリードと、スコットランドのグラスゴー・レンジャーズとの大試合がマドリッドからテレビ放送で中継されるからであった。大半の人たちはどちらが勝ったか知らないうちに命を落とす運命になっていた(スペイン・チームが6対0で勝った)。そして、あとでその試合はそれほど多勢の人を死に誘ったというので、ひどく恨まれた。 実際は試合があったから、なかったからといって、べつに最終的な死亡者総数に大した違いはなかったはずである。そのため死の運命に見舞われた人もあったが、助かった人もあったのである。

赤信号!

一方トック山上の見張り代わりの水準基標は極端な数字を示し出していた。以前の40ミリという危険表示度など、もう遠い過去のものとなってしまった。今ではどの信号もみんな190、200ミリを表示しているではないか!

午後9時直前 ― 災害のわずか100分足らず前 ― にべネチアのビアデーネは、ダムの下とロンガローネのあたりで、湖水の直接の周辺にすでに実施されていたのとおなじ警戒体制を敷いたほうが賢明だと腹を決め、ベルルーノの町にいる下役の技師に電話して、ダムの下のすべての道路と、ロンガローネの町と周辺のすべての交通を警察に遮断してもらうよう命じた。そしてダムからは、下のピアーべ川沿いの住民や、各事業所に ― 製材場にも、紡績工場にも、採石場にも、1軒ある居酒屋にも ― つづけざまに電話をかけ、次のような言葉を伝えた。

「ひょっととしたら今夜ダムから少し溢水(いっすい)するかもしれません・・・、あわてることは何もないと思いますが」

第3話へ続く

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