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新アダムスキー全集

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中央アート出版社
TEL : 03-3561-7017
E-mail :info@chuoart.co.jp
 ジョージ・アダムスキーの思い出

メイ・フリットクロフト NewsLetter No.66 より

1961年末に私はベルギーにおけるジョージ・アダムスキーのコーワーカーになった。この年すでに5月にはベルギーUFOインフォメーションの機関誌が創刊されたが、その頃は各国コーワーカー間に密接な協力が行なわれており、非常な関心を持っていた時期だった。

1963年に、デンマークのハンス・ペテルセン少佐がフレデリカで行なわれたあるUFOの会合にアダムスキー氏を招待した。彼はデンマークとフィンランド両政府の招待客になることになっていた。ところがこの招待が拡張して、ヨーロッパの2国、ベルギーとスイスヘの講演旅行にも発展したのである。 (訳注:このときすでにGAP活動を問始していた編者は、アダムスキーの第二次ヨーロッパ旅行の途中、日本にも招待することを企画し、都内で聞かれた小集会で提案したが、全く問題にされなかった)。

▲1963年撮影のアダムスキーとメイ夫人。

この旅行における私の役割は当時の10日間において忘れがたい体験となった。彼がベルギーと、バーゼル、最後にローマヘ行った10日間である。計画どおりにフィンランドヘは行かないで、アダムスキー氏は激しい逆宣伝の警告を受けて、5月15日にベルギーのアントヮープヘ予定よりも早く到着した。彼はひどい風邪をひいて病んでいた。これが彼の肉体の弱点であり、このため2年後に肺炎となり、心臓をやられて逝去したのである。

とにかく私たちはアントヮープのセンチュリーホテルヘ彼を宿泊させるために急いで手配をした。最初に会見したときに受けた強烈な印象が今も記憶に残っている。アダムスキー氏は年齢よりも若く見え、大変な敏感さを身につけていた。

宇宙人が快復を援助した

彼が到着した翌日、彼をホテルから連れ出そうと電話をかけたけれども、ひどく休をこわして終日自室で寝る以外には何もできないことがわかった。その間、私たちは付近の喫茶店の中から見張っていた。

しかし翌朝、幸いにも彼はかなり快復して私の家へ来てグループの人々に話ができるほどになった。これは金曜日のことで、翌日の土曜日にオランダのコーワーカーたちが長時間の会見を求めてやって来た。このときアダムスキー氏は、一宇宙人によって体の快復を援助されたのだと私に打ち明けた。

同じ日にレストランにいたとき、アダムスキー氏は、居合わせた1人の男に私たちの注意を向けさせて、あの人は宇宙人なのだと説明した。それから私が数年後にデンマークヘ行ったとき、ア氏がティボリ公園を訪れたあいだにデンマークのグルーブのあとをついて行った男が、同じ男であることを知った。

関心のある人々とのこうした集まりはすべて深夜まで続いたが、私たちはしばしば疲れたのにアダムスキー氏は生き生きとしていた。それにもかかわらず月曜日に私たちは休息を求めて海岸へ観光ツアーに出かけた。

水曜日に行なわれた青年たちとの会見は大成功だった。最初にアダムスキーに反対していた人々が、短時間後に彼の味方になり、彼の言葉に熱烈な関心を持つようになったのである。

すばらしいテレパシー能力と忍耐力

アダムスキー氏は私たちの秘書だったスージー・ピーターズ夫人と私に、彼のテレパシー能力の非常に明確な実例を示してくれた。2人で客人用のデザートの準備を台所でしていたとき、どうしてもアダムスキー氏に聞いてみたくてしようのないある問題を論じ合っていた。

2人が台所から出て行くと、アダムスキーは私たちを見て微笑し、私だちから一言も聞いたわけでもないのに、こちらの疑問に対する解答を与えたのである!

アダムスキー氏が示した別な特徴は彼の信じがたいほどの忍耐力と、無数の質問に答える能力である。彼がアントワープに滞在中、オーストリアのコーワーカー、ドラ・バウエルとドイツのエリカ・クーレカンプがやって来た。

サン・ピエトロ寺院へ入る

5月24日、金曜日の朝、アダムスキー氏と私はスイスのバーゼル行きの急行列車で出発した。そこではルウ・チンシュタークがコーワーカーをやっていたのである。彼はクラフトホテルヘ滞在して、そこにいたあいだ沢山の会合に出席した。

5月30日の火曜日に、アダムスキー氏はルウと私につき添われて、ローマヘ向かって飛行機で出発した。そして翌朝彼はヨハネ23世と会見したと私たちに語ったのである。

ホテルでは支配人がすごく親切で、ルウと私に花束をくれた。翌朝私たちはアダムスキー氏と一緒にサン・ピエトロ寺院へ行った。11時の会見を行なうためである。その時刻に私たちはバチカン宮殿 の左手側にいたが、建物から少し離れた位置で待っていたとき、ドアーが開いてアダムスキー氏が中へ案内された。

彼は12時半頃に出て来るからと言っていた。そしてその時刻を少しすぎたときにルウと私の所へ帰って来た。

▲1979年度の日本GAP総会で講演するメイ夫人。

最初の印象に従えばよかった

私たちは一緒にすてきな食事をとった。アダムスキー氏が語るところによると、法王は彼を祝福し、新聞では重病だと報道しているけれども、法王の両頬はバラ色で、元気そうに見えたという。しかし夕方には法王が昏睡状態におちいったという不幸なニュースを聞いた。

昼食後、ルウ・チンシュタークと私は休息するために2階へ上がった。私自身はアダムスキー氏と一緒にいたいという印象が起こったけれども、彼を一人だけにしておいたのである。

2人が階下へ降りたとき、彼は私に言った。「あんたは最初の印象に従えばよかったんだ。バチカンから高官がやって来て、私と話して行ったよ」

話は変わって3年後の1966年に、イギリスのコーワーカー、ロン・キャズウェル氏が、私たちが泊まったローマのアルジャホテルヘ手紙を出して、バチカン宮殿から男が(アダムスキーのホテルヘ)訪ねて来た件に関してマネージャーから情報を伝えるように要請した。

するとマネージャーは、年輩の一紳士と2人の婦人が一緒にホテルにいたことを思い出し、2人の婦人が席をはずしたあいだにバチカンから来た人が年輩の紳士としばらく話していたと回答したのである。

さて、翌日の土曜日の正午、アダムスキーと一統にいたとき、彼は法王から贈られたという美しい黄金のメダルを私たちに見せてくれたが、これは立派な皮ケースに人っていた。数年後にデスモンド・レスリーがそのメダルの写真をローマカトリック教会の高僧に見せたところ、そのメダルはめったに人に与えられるような品ではないと相手が答えたという。

土曜日の午後、私たちはローマに立派な家を持っている、デスモンドの兄のキャプテン・レスリーを訪れてハイティーのご馳走になった(訳注:これは肉のー品料理のつく夕方のティー)。このとき居合わせた客人たちは非常に洗練された人々であったけれども、アダムスキー氏は気楽な態度でくつろいで、一同の信用を得たのであった。

アダムスキー氏はその場にいた画家とその作品のことを話し、ある作品を描きあげたときに本人がどんな気分であったかを言い当てた。またその人の性格も正しく分析した。これはアダムスキーがどんな集まりの中にいてもくつろげることのできる一例であり、だれとも話し合える能力を示したものでもあった。

日曜日には、イタリアのコーワーカーであったアルベルト・ペレゴが彼に会って、長時間話し合った。

法王の健康状態に関して絶えずニュースが流れたが、ついに訃報が出たのは、私たちがアメリカヘ帰るアダムスキー氏を空港で見送る前の、6月3日の月曜日だった。

1964年の4月と5月には、私は前の夫(訳注:逝去されたモルレ氏)と共にビスタのアダムスキー氏の家を訪問して、ふたたび哲学について語り合うことができた。私たちは長時間話し、多数のテープに録音した。

1963年の旅行でアダムスキー氏がヨーロッパヘ来る前に私はベルギーの王室と接触し、エリザベス皇太后にアダムスキーの最初の著書を送っておいた。そして皇太后は彼と会見することに同意したのである。しかし残念ながらアダムスキー氏が到着する直前に皇太后は病気になり、彼に会うことはできなかった。

以上、私は1959年と63年の旅行中に起こったさまざまの出来事や、アダムスキーという人物について概略を述べた。しかし彼の仕事はまだ終わっていない。それは現在もなお強力に続いており、国際間の協力にまで発展している。

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