彼の主張は私にとって全くファンタスティックなものとは思えず、その物語にはたしかに真実らしさがあった。この書の一部分は『オーストラレイジアン・ポスト』と題するオーストラリアの雑誌に掲載されたので、母国オーストラリアにおける反響は大体に良好だった。
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▲1978年8月17日。ベルギーGAPリーダー、キース及びメイ・フリットクロフト夫妻。パリにて久保田と対談中。 |
1954年後に『宇宙船の内部』が出たとき、私はすぐに入手したが、宇宙空間を旅したというアダムスキー氏の話は真実らしく思われた。地球の初期のロケットが地球の外へ少し飛び出た頃に、だれかが大気圏外へ連れ出されて真相を示されたとしても不思議ではない。後に判明したように、この書に述べられた知識情報は、その時代にロケットの探査実験からアメリカの科学者によって創られた”モデル大気”に大いに応用されたのである。
結局私は、オーストラリアの彼の最初のコーワーカー(協力連絡者)の助手になった後、アダムスキーに手紙を書いたところ、数通の丁重な返事をもらった。たまたま私はクイーンズランド円盤研究会にも所属して(現在この会はクイーンズランドUFO研究会と称している)おり、そこの委員の一人だった。
1958年に私たち委員会は、UFO界の有名人をクイーンズランドヘ招待して講演をやってもらおうということになり、その結果、アダムスキー氏が選ばれた。招待費用を分担する必要があったので、他のUFO研究団体等へ呼びかけて援助を要請したところ、結局、その旅行はアダムスキー氏にとって世界旅行になってしまった。私たちの団体の書記であったゴードン・ジャミーソン氏は、世界中の各種UFOグループと文通して、何カ月もの間手紙類の処理で多忙だった。したがって、1959年の世界旅行をアダムスキー氏は金儲けのために自分で企画したのだといわれているが、実際には彼は招待されたのであって、もとのアイデアはクイーンズランド円盤研究会が出したものである。大体に氏の旅行費用は捻出されたが、氏が金を受け取ったにしても、タバココ銭があれば充分だったろう。(訳注:アダムスキーは現金を待つことを嫌い、支払いはすべて側近にまかせていた。また1959年の世界旅行は、当時すでにア氏のコーワーカーだった編者のもとにもオーストラリアから日本までの旅費を負担しないかと他国から要請があったが、まだGAPを組織していない頃のことなので涙をのんで断った)
極度に敏感なアダムスキー
この旅行の詳細な記事はアダムスキー氏の3番目の書物『さらば円盤』(訳注:日本語版は『空飛ぶ円盤の真相』)に出ているので、ここで述べる必要はないが、クイーンズランドのブリスベーンであった出来事のうち未公開のものは他国のGAPメンバーーにも興味深いだろう。
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▲1959年3月31日付けのクリアメール紙(オーストラリア)より。コアラのぬいぐるみを渡しているのはG・ジャミーソンの令嬢ポーラ(4歳)。 |
3月末の午後、ブリスベーン空港にアダムスキー氏が到着したとき、出迎えた人々は報われた。ゴードン・ジャミーソンの若い娘が玩具のコアラ(訳注:オーストラリア産のクマの一種)をアダムスキー氏に贈ったが、この光景は地方新聞に掲載されたすばらしい写真の中に写っている。アダムスキー氏がオーストラリアに到着したとき、すでにわがグループの広報係幹部ゴードン・ジャミーソンとロイ・ラッセルはシドニーヘ行っていたが、2人とも私たちがアダムスキー氏を講師に選んだことを非常に喜んで帰って来た。そして反応の早い氏の知性とすばらしい知識に感銘を受けた。
出迎えた私たちを素早く氏が見回したときの私の印象は、茶色の眼に異常な温かさと、すごく敏感な知性をたたえているということだった。これはこの人の特性の一つである。氏は極度に鋭敏で反応が敏速であり、UFO問題ばかりか科学界の業績やスペース・プログラムについても信じられぬほどの知識を持っているようだった。自分が述べる事実に関しては自信に満ちていたが、この自信はある深い基盤に根ざしているかに思われた。氏の背後に或る強力な支持力があるのだと人は感じないわけにゆかなかった。もう一つの特性は高度な忍耐力と丁寧さでこのいずれも魅惑的で感動的だった。氏の性格は全く独特かつ印象的であった。
高度な忍耐力と冷静さ
忍耐力といえば、4月2目の夕方の出来事を強く思い出す。ブリスベーン市公会堂の円形ホールのステージに氏が現われたとき、少なくとも2000名が座ったり、外側通路に立ったりしており、満員で数百名が入場できなかった。地元大学の学生たちがアダムスキーの話は大きな冗談なのだときめつけていたが、幸いにも彼らのアダムスキー誘拐計画に関する情報が入ったため、ホール内には警官がいた。それにもかかわらず多数の学生が顔を緑色に塗り、ベッドシーツを身にまとって伝統的な小人宇宙人の姿をしていた。そして彼らのふざけた妨害行為は終始続いたが、アダムスキー氏は冷静な態度を保ち続けたので、その後はUFOの実在説がその大学で話題となって残った。
反対派からも敬愛された
氏が講演中に語った問題の一つに次のようなものがある。それより数カ月前にNASAの公表として、ある人工衛星の軌道の乱れは別な惑星からの干渉によって発生したと新聞が発表した。そこでアダムスキー氏が指摘して、他の惑星群は遠いぎてこれは不可能であり、実際には近隣の惑星から来た宇宙船(複数)が近接調査をするために近寄りすぎて、偶然に人工衛生の軌道を変えたのだと言う。
わが招待客は講演中に自信をもって述べたので、氏は旅行中にアメリカの外交スタッフと接触を続けることを要求された。私たちはこの事をたしかに事実として認めるが、しかしある政府機関は氏を援助していたし、強力に抵抗する機関もあった。
幸いにも氏は事前にすぐれたアドバイスを与えられていたので、どこの国でも講演の前にまず仕事の許可を取らねばならぬことを知っていた。それで氏を別な方法で納得させようとしても、頑としてこの規則に執着した。トラブルがなくてもそうしようとした。だが実際には氏がどこへ行っても、ひそかにトラブルを発生させようとして事前にだれかが待機していた。しかし奇妙なことに最初は彼に対抗した人々も、アダムスキー氏が去って行くまで一緒にいることがしばしばあった。たぶん彼にとって最も楽であった国はニュージーランドだろう。そこでは政府が実際に彼を援助した。おそらく最悪の国はスイスで、チューリッヒでは彼の映画の上映中にスクリーンに強力な光線が投射されたが、居合わせた警官は何もしなかった。
アダムスキー氏が数週間滞在したブリスベーンで私たちが気付いたのは、心霊のような神秘主義を否定する彼の立場に同調しない人ですら、彼が最も好感のもてる性格を待っていることを認めたという事実である。私たちが彼にむかっていやいやながら別れを告げたとき、彼は最高にすばらしい印象を残した。
悪質なジャーナリズム
新興国では成功したにもかかわらず、アダムスキー氏はヨーロッパで強力な反対派に出会うことになった。その後彼の問題を取り上げた多くの悪賢な新聞は、かなりな力を待つある大きなグループの反応のせいでもある。オランダのハーグにいたとき、アダムスキー氏はユリアナ女王に拝謁したが、これにはベルンハルト王子ばかりでなく多くの学者や教授も 同席した。会見が予定の1時間から2時間に延長されたことはほとんど知られていない。
しかしカトリック新聞はアダムスキー氏の訪問を非常に悪く解釈し、彼とユリアナ女王に反発する運動を始めた。パリの『パリ・マッチ』誌などは完全なでっちあげインタビュー記事を掲載した。これは不幸なスタートで、こうしたインチキが他国の新聞でも繰り返されたし、イタリアの新聞でも試みられた。それにもかかわらず、オランダ王家への訪問は世界中の講演と同様に、全く王室からの依頼によるものであり、アダムスキーが懇願したものではない。
彼はまたイギリスのフィリップ王子との会見の招待も受けたが、これは結局中止された。おそらく当時広く流れていた悪評のためだろう。しかしアダムスキー氏は世界中の重要な地位にある多くの人とひそかに会見している。彼はまた航空技師のレナード・G・クランプにも会った。クランブはUFO報告類を徹底的に研究して、後に著書『宇宙・引力・空飛ぶ円盤』と『はめ絵の一片』でアダムスキーを支持したのである。彼はジョージ・アダムスキーが実際にUFOに乗ったと確信している。
人間は一種のラジオ受信機
ブリスベーンの話に返ることにしよう。アダムスキー氏が私たちと共に滞在した2週間、多くの機会に私は氏と会うことができた。
ある夕方、彼は人間はラジオ受信機のようなものだと言った。結局そのようにしてメンタル・テレパシーが作用するのだという解答を得た。後にソ連の『ポポフ・グループ』が発見した原理である。つまり人間の脳はラジオの送受信の役目をし、2人の人間の想念伝達は、両方の波長が合うときに発生するというのである。これはアダムスキー氏が教えた事柄の証明としてのただの一例にすぎない。
1966年に私はヨーロッパヘ行き、ベルギーのコーワーカーだったメイ・モルレと会ったが、これが後に私の妻になった。現在、私たち夫妻は『ベルギーUFOインフォメーションGAP』というグループを運営している(訳注:我々はこれをベルギーGAPと称している)。
私がアダムスキー氏から教えられた自然の法則を学び続けるにつれて、ますます彼の巨大な知識と生命の体験を知ることが可能となる。同時に彼が大衆に示した簡潔さと明快さもわかるだろう。 |