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新アダムスキー全集

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中央アート出版社
TEL : 03-3561-7017
E-mail :info@chuoart.co.jp
 ジョージ・アダムスキーの思い出 ルウ・チンシュターク

日本GAPニューズレター 第54号 より

 私は十年以上にわたってジョージ・アダムスキーと交際しましたが、何より重要だったのは彼が講演旅行でヨーロッパにいたあいだにまる六週間を一緒にすごしたことです。彼の手紙類を読んで私はまもなく彼が純朴ではあるけれども知性人で、しかもすぐれたマナーを身につけているという強い印象を受けました。

アダムスキーの洗練されたマナー

この2つの印象は1959年に親しく彼に接したときに強められました。当時私はその洗練されたマナーにしばしば気付きました。たとえばテーブル・マナーがそれです。あるとき私たち一同はバーゼルの有名な実業家の邸宅の夕食会に招待されました。この家の夫人はオランダの高貴な家の出身です。先方は20種類の特別な料理を出しましたが(おそらく意地悪い意図でそうしたものと思います)、それは普通の刃物類を使用したり一般的な食事作法に従って食べるのは全く困難な料理でした。しかしジョージは驚くほど気楽な上品な手つきで食事するのです。あとで知人が語ったところによりますと、アダムスキーならばバッキンガム宮殿の夕食会でも大丈夫だろうとのことでした。先方の夫人はジョージの談話に魅了されたようで、またジョージも雑多な、しかも大変興味ある話をし続けました。

▲ルウ・チンシュターク女史

家族的背景について尋ねられたとき、ジョージは自分の貧しい両親のことを全然隠そうとはしませんでしたし、また自分がポーランド出身であることを誇りにしていました。彼の話では、アダムスキーの"スキー"というのは男性語尾にすぎないので、のけようと思えば容易にできるのだが、父を記念して付けているのだそうです。

ジョージは婦人にたいしていつもきわめて礼儀正しく親切でした。バーゼルのレストラントで私たちについた女の子は、ジョージが多数の客のなかで最高にすてきな客だといっていました。

多くの事実に精通していた

ジョージ・アダムスキーの知性については簡単に説明できません。それは一般にも認められていませんが、これは彼が学者でなかったからです。、実際彼は多読家でもありません。しかし時として意外に彼が円盤問題ばかりでなく多くの事柄に精通していることがわかりました。たとえば1959年にローマでポリメーニ博士夫妻と夕食を共にしたことがあります。ポリメーニは高い教育を受けた若いジャーナリストで、夫人もギリシアとロ−マの修道院で教育を受けた教養の高い女性です。両人共心からアダムスキーを信じたがっていましたし、円盤問題の大ファンでした。(ついでながらポリメーニは例のモングッチ円盤写真の最初の印画をジョージと私にくれた人です)

その夜ローマにおける一同の談話は楽しく続きましたが、やがてポリメーニが戦争と、それにユダヤ人にたいするナチの残虐行為の話をもち出しました。すると一同が驚いたことにジョージはもちろんその残虐行為を弁護もしなければ容認もしないで、少なくとも15分間、戦前のドイツにおけるユダヤ人の状態と、ヨーロッパ人のほとんどだれも今まで知っていない或る立証済の事実(複数)を語ったのです。ヨーロッパ大陸についてはほとんど何も知らぬはずの1アメリカ人のロから出る話なので奇妙な感じがしました。

過去を忘れようとしていた

一体にアダムスキーが歴史上の事柄に興味を持っていたとはだれにもいえないでしょう。そのとおりでして、それどころか彼は過去をきらっていました。過去を恥じていたのです。だから次のようにいっていました。「未来に向かうことにして、過去は忘れようではないか」 田舎ヘドライブにつれ出したとき、元ハブスブルク家の居城だったという城を遠方から見せましたら、彼は急に騒ぎだして「わ−ツ、もう城は見たくないよ」と叫びます。「イギリスでは次々と城を見せてくれたが、ある城では中世に敵を深い泉の中へ投げ込んだ場所でご馳走を出すんだ! そんな気味の悪い場所は取りこわして忘れるべきだ」

そのとき以来私は古い遺物を見せることをやめました。しかし後にローマで同じような泉のある場所で夕食会を開いたのは仕方のないことでした。ペレゴ博士が自慢してそれを見せたのです。(注=アルベルド・ペレゴ博士はイタリアGAPリーダー。現在でも活動を続けている)

教会と金銭をきらう

そのうち私はジョージが2つの主な物事をひどくきらっていることに気付きました。その一つは、はいらないですむ場合は決して教会へはいらなかったこと、他の一つは自分の手に握らされない限り決してお金に触れなかったことです。

彼がバーゼルに到着した日に私はいくらかの金を渡しました。自分で買物をしたいだろうと思ったからです。しかし彼はその金を使いません。私が付き添っていなければ店にも食堂にもはいろうとはせず、いつも私に払わせるのです。これはもちろんかまわないことです。彼は私の招待客なのですからー。しかし私が渡した金が1、2日して消えたと信ずべき理由があります。私は全然尋ねませんでしたが、話を聞いているうちに、彼がその金を朝ホテルヘひそかに訪ねて来た"男たち"へ渡したことがわかりました(この"男たち"というのは彼の知り合いの別な惑星の人たちなのだといっていました)。

私が全然知らないこの訪問者たちは私にとっていつもナゾの人物でした。彼らは私がジョージのホテルへ行くまでに必ず来ていました。私がホテルの受付で話し合っていたとき、彼らが来ていることが気になったことが再三あります。彼らはていねいにアダムスキーのことを尋ねて彼の室へ案内されるのでした。

第2週目に"男たち"の一人が−異様な風体でしたが−私に紹介されました。相手は実に立派な人のようでしたので、例の金をもらったのはこの人なのだなと思って私はすっかりうれしくなりました。

ジョージが教会へはいるのをひどくきらったことは、まもなく私にとってひそかな楽しみの種になりました。ただしそれは深い理由のあることで、本来笑うべき事でないことはわかっていましたが−。バーゼルでの最初の日に私はもちろん彼を大寺院へ案内しました。彼はその高い尖塔群をいんぎんな態度で見ていましたが、中へははいりませんでした。彼はすぐに一同が渡し船で渡ったことのある河の方へ向きなおりました。これを撮影したかったのです。

「これがほんとうの自由エネルギーだ」と叫んで楽しそうに写していました。(注:右の写真がそのときアダムスキーが撮影したもの。ルウが編者に贈ってくれた) 

ローマにいたとき私は彼を聖ペテロ寺院へ案内しましたが、またも彼ノはその建物よりも乗って行った馬車にはるかに興味を示し、馬車から降りようとはしないで、その印象的な乗物を撮っていました。

ところである日ジョージは教会へはいる必要にせまられたのです。レズリー氏(注=「空飛ぶ円盤実見記」の共著者でアダムスキーの親友であるデスモンド・レズリー)は可愛い小さな宮殿(16世紀ないし17世紀頃のもの)を所有しています。この宮殿の一部は使用されない礼拝堂になっています。2人の老尼が今もその1階に住んでいて、内部にはキリスト教の初期に殉教者が避難していたといわれる大昔の石造の小室があります。この小室は見る価値があり、ジョージも興味を示しましたが、彼は祭壇を見ようともせず、全然近寄らないし、一行の他の連中がやったような十字を切ることもしません。一同が聖人の絵画類を見ていたあいだ、ジョージは赤や黄金色の古物で柱を飾るのに忙しい尼たちに話しかけていました。彼はそそくさと礼拝堂を出て行きましたので、デスモンド・レズリーはむしろ驚いたようでした。

1959年に、ジョージが聖ペテロ寺院へはいりたくなかった理由は「そこが多数の殺人の行なわれた恐ろしい場所であるからだ」そうで、彼がそう語ったのをおぼえています。「この場所は血で満ちている」とつけ加えました。やはり彼はバチカンの歴史に精通していたといいたいところです。もちろん彼はコロセウムもきらって中へはいろうとはしませんでした。彼は昔から残っている廃虚に刻まれている波動にきわめて感じやすい人なのです。

西洋哲学はダメという

そうこうするうちに彼の特殊な知性に私は戸惑うようになりました。たとえば、彼はたしかにヨローッパの哲学者、古代ギリシア人、古代ロ−マ人、ショーペンハワー、カント等に精通していなかったと思います。彼の最大の関心はだれもが知っているような哲学にありました。あるとき彼は「こんな(西洋の)哲学上の諸説はすべて無意味だ。というわけは哲学者たちが人間の感覚の能力を認めないで知的能力を過大評価したからだ」と説明したことがあります。(もちろんこの感覚の能力を感情と混同してはいけません) 

彼のしばしば知覚や警戒カに関する人間の能力(まだ人間の内部に眠っている能力)について語り、また彼によればほとんどの人々の内部に放置されているという人間の本能的なカについて語りました。彼は例の宇宙語、つまりあらゆる生きもの、植物動物、人間などのための意志伝達手段を”テレパシー”と呼んでいました。

ジョージは偉大な意志のカを持っていました。それは沈黙を守る能力によってあらわれています。私の意見では、ジョ−ジが日常ほとんどおかれていたような状況下にあって秘密を守るためには、かなりの理性カばかりでなく異常なまでに強力な意士力を必要とします。たとえば自分が知っている事柄をしゃべることによって大喝采を博すことができるような場合でも彼は口を閉じ続けることができるのです。自分の心は秘密事項が埋められている墓場のようなものだと彼はいっていました。

米政府と関係していた?

あるときジョージと私の二人きりになったとき、彼は垣根の両側(これは彼の言葉そのものです)、つまり米国政府とプラザーズ(別な惑星の人)の両方から多くの秘密事項をまかされたと語ったことがあります。これは彼が沈黙の誓いを決して破らないからで、人から尋ねられたときにはむしろとぼけるようにしているといっていました。

彼がホワイトハウスの側道へ通じる秘密のドアーから2度ばかりはいったことがあると語った言葉は真実だろうと思います。他のこのような秘密のドアすなわちバチカン宮殿のドアーから彼がはいって行くのを私は見たことがあるからです。(注=本誌前号の「ジョージ.アダムスキーの思い出」を参照) 

なぜ秘密のドアーからはいって、別な入口からはいらないのでしょぅ? またジョージの話ではカリフォルニアのホットスブリングが重要な場所だとのことで、しばしばそこへ会合やテストなどに行ったということです。後に私はケネディー大統領がホットスブリングヘの重要な旅行計画を急に変更したと報導されたのを見たとき、このジョージの言葉をはっきりと思い出しました。当時この重要計画の変更の理由について新聞に多くの憶測が掲載されましたが、ジョージはその理由を知っていたと思います。しかし彼は他の事件すべてと同様にケネディーの秘密を守ったわけです。

秘密を守る自己訓練

またジョージは、秘密を守るために人名や場所を忘れる訓練を慎重に行なったと語っていました。その例として、彼の家へ2人の地球人パイロットがやって来て、地球の言葉でなく別な惑星の文字で美しく書かれた手記を見せた事件があります。この男たちの話では、日課の飛行中に1機の巨大な宇宙船の中へ飛行機ごと吸い込まれてしまい、内部を見せられたあと、宇宙船の乗員の1人が軍事基地について尋ね、ペンを借りて2人の眼前で驚くべき短時間でその手紙を書いたというのです。ジョージはその手紙のコピーを私に見せましたが、そのとき私が内気なためにコピーを作ってくれと頼めなかったことを今でも残念に思っています。この2人のパイロットは自分たちの名前を忘れてくれと懇願したのでジョ−ジはそうしたといっていました。この事件は当時評判になりました。なぜなら2人のパイロットは燃料を使用せず、しかもどこにも着陸しないで2時間を余分に費したからです。

ときとして真相を隠すためにジョ−ジがあいまいな無意味な返事をするので、そのためひどく信用を落とすことがありました。しかし私自身の体験からいって彼に対する私の信頼は磐石のように強固になっています。

久保田八郎 訳

 

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