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| ├ 写 真 |
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| 光の子と闇の子のたたかい 久保田八郎 | |
| 日本GAPニューズレター 第53号 より |
| ジョージ・アダムスキーの「生命の科学」を読んでみますと、最も重要と思われる個所として次のような節が目につきます。 |
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1.「この大いなる英知と共に働くに際して友星人が用いる方法は、心のかわりに自己の意識でもって万物を観察することにあります。わかりやすくいえば、彼らは観察される個体があたかも自分であるかのようにその個体について意識的になるのです」(57ページ) 2.「ゆえに或る意味ではわれわれ人間は半分メクラなのであっで、つまり人生の半分だけしか生きていないのです。イエスはいっていますの 『死者に死者を葬らしめよ』と。これは死体を運ぶ棺の付添人は死体と同様に死んでいるという意妹です。棺の中の死体は生命にたいして無意識のまま横たわっていますが、それを運ぶ人たちも実は〃宇宙の生命〃にたいして完全に無意識なのです」(93ページ)
しかし科学によらなくても直感的に転生の事実を知っている人がありますし、身近な現実の世界においても物事の結果を直感的に予知する人もいますから、科学的実証はなくても人間は直感カの増大によって万象の実態をある程度は感知することができるわけで、ここに1つの活路が見出されることになります。 コンピューターその他の科学的機械類の驚くべき性能を決して無視することはできませんが、個人の身にせまった危機を事前に探知する装置はまだ開発されていませんし、だいいち、人間の運命を予知する機械の発明はおそらく不可能でしょう。運命というのは四次元世界で描かれた青写真が展開するものと考えられるからです。この四次元世界と関連のある唯一のものは人間の想念であるということにまず間違いはありません。実にこの"想念"が青写真を描いて運命の源泉となるのであって、これ以外の何か他のものが一個人の運命を決定するのでないことは多数の聖賢の教えによらなくても自己の簡単な行動上の結果から帰納的に推理してもわかることです。 想念によって青写真が描かれて一つの運命が展開してゆくとすれば、それを感知するものは想念発生器官を兼ねる受信器官でなければなりません。どんなに高感度なラジオ受信機でもこればかりは不可能です。これをいいかえますと、個人の運命を作るものは本人そのものであり、自己の運命の結末を感知するのも本人自身であるということになります。たまにすばらしい超能力者がいて、他人の運命を予知することもありますが、危難をのがれるか予定のコースどおりに巻き込まれるかは本人次第です。たとえ超能力者のアドバイスによって一時的に危難をのがれても結局本人は自分で作ったカルマを果たしたことにならず、いずれは自分で清算しなければならない時がきます。 したがってやたらと超能力者に頼るのはよくないのであって、何といっても自分自身が超能力者になることが先決問題です。このためにこそテレパシー、透視力等の超感覚カの開発が必要なのであり、その方法を教えたアダムスキーの哲学書が重視されるわけです。 「今」という瞬間の重要性 「他人は信用できない」という言葉が一般化していますが、この真の意味は「他人のセンスマインドは信用できない」ということなのであって、ソウルマインドまで信用できないのではありません。しかし一般人はセンスマインドを人間の実体とみていますから、これが変化すればたちまち相手に失望します。これは両者とも誤っているのであって、メクソがハナクソを笑うたぐいです。つまりAがBを非難する場合、AのセンスマインドがBのセンスマインドを非難しているにすぎません。いいかえればこの地球上ではそれほどにセンスマインドに頼りきっているというわけで、これでは天国のような世界の実現はほど遠いことになります。 なぜある人々は墜落する運命にある飛行機に乗るのか、なぜある人々は大火災か発生する運命にあるホテルに宿泊するのか。この世には安全な飛行機やホテルは沢山あるのに、なぜよりによってそのような危険な運命にあるものに引きよせられるのか。これは本人が過去に描いた青写真どおりに現象の世界で具体化するのですが、宇宙の意識と一体化して予感カを発達させれば「行くな」という内奥の意識からくる声を聞きとることができて、その青写真を消滅させることが可能になります。 これはカルマの修正です。したがって人間は絶対的な宿命によってがんじがらめに縛られているわけではなく、向上の機会はいつでも与えられています。「いつでも」というのは「今」という瞬間を重視することを意味するのであり、30年後、50年後ではありません。「今」という瞬間に自分は大変化をとげようと決意してそのように自己訓練を開始するならば、そのときから新たに宇宙的な前進コースの青写真が描かれて、それが現象の世界に展開してきます。本人が設定した輝かしいカルマを果たす道が開かれてくるのです。こうした積極的な変化をとげないでいてある日突然にテレパシックな超能力が身についてくることはあり得ません。やはり想念印象の観察、他の個体との一体化の練習、その他の自己訓練をたえまなく行なうことによって次第に感知カが開発されるのです。論戦などの言葉の遊戯に終始しているだけでは百年河清を待つことになるだけでしょう。 知識と感性とは別 アダムスキーの哲学の要諦は「内部からくるインスピレーションに従って生きよ」に尽きます。インスピレーショソといえば普通「霊感」というような意味にとられて、心霊的なものと感違いされやすいのですが、ここでいうインスピレーショソとは「内奥の意識から洩らされる指令」というほどの意味であって、心霊とは関係ありません。要するに直感によって誤りのないスムーズな生活をしながら他人を助けて、この世界を住みよい社会にしようというわけで、そのためには万事を知っている内部の意識に頼り、意識からくる情報に従おうということを意味します。 大体に人間は精神的に進歩すればするほど直感カが向上するのであって、きわめて豊富な語彙をもちながらもテレパシックな感受力がなければ、結局は語彙をもたない人と実質的に異なりません。自分の行動の結果を適確に予知できず、やはり迷いに満ちているからです。ここにおいて知識と感性とは別物であることがわかります。もちろん知識はなくてもよいという意味ではありません。ただ従来の人間の生き方が知識本位であって、感受カの開発に主体をおいていない点を指摘したにすぎません。 自分自身とのたたかい インスピレーショソが泉の如くたえずわき起こって失敗のない生活ができるようになればどんなにすばらしいことでしょう。これは決して不可能事ではありません。そのような人が現実に存在するからには、万人にその可能性が潜在しています。必要なのは、必ず可能になるという鉄のような信念とすさまじい忍耐カを基盤にした自己訓練です。忍耐とはオケラ道徳だという人がありますが、私の経験によれば貧弱な語学カを身につけるだけでも数十年にわたる相当な忍耐力を要したことを思えば、一般人の思いもよらぬ超能力的感知カを開発するのが生やさしくはないことがわかります。 そうなると一つのたたかいが始まります。光の子(ソウルマインド)と闇の子(センスマインド)とのたたかいです。怠惰なセンスマインドを何とかしてソウルマインドのもとへつれもどそうとするたたかいであり、これは自分自身とのたたかいでもあります。もちろん公害その他の社会悪を是正するための具体的活動も必要ですが、これぷセンスマインドから出る感情的な行動になっては、かえつて悪しきカルマを作ることになり、悪循環をくり返すことになります。その場合にいかなる行動に出るかは内部の意識からもたらされる知恵に従うことが大切です。 一体にこの世では何をやっても生やさしくはありません。他人からの援助だけを頼りにしていては失望をまねくだけです。むしろ他に対する援助の方向に動いてこそ救いがあります。 質疑応答
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