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| ├ 写 真 |
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| ルールドの奇跡 久保田 八郎 | |
| 第4章3部 おそいかかる激痛 |
| 1877年の12月からベルナデットの病状はひどく悪化した。肺結核とゼンソクに加えて膝のカリエスがひどくなり、歩けなくなってしまった。そのため翌年の10月30日には聖十字架病院に移された。 |
これ以後はまったくの苦痛の連続であった。悪魔の手でひき裂かれるような激痛がたえまなくおそいかかる。膝のカリエスは全身に広がり、もはや手のほどこしようはない。夜間も苦しみのうめき声をあげるので、つきそいのシスターは眠れない。ベルナデットはこの看護婦にたいし、眠りを妨げていることをわび続けた。 翌79年の2月ころからはまさに地獄の苦しみが続いた。そして4月13日の復活祭の日からは、親しいシスターたちに別れのことばを告げはじめた。 14日から15日にかけてベルナデットはうわ言を言うようになった。 「サタン(惑魔)よ、去れ」とか「イエスさま」と、かぼそい声でつふやく。 15日の夜は、アルフォンスというシスターがつきそった。ベルナデットは全身が砕けんばかりの激痛を少しでもやわらげようとして、体の向きを変えるのを手伝ってくれと言う。アルアオンスが動かそうとすると彼女は悲鳴に近い声を出すが、まったく不平は言わなかったとアルアオンスは回想している。 16日の朝になった。ベルナデットの最後の朝である。11時半になると何を思ったか、彼女はベッドから起こして椅子に座らせてくれと頼んだ。 ベルナデットは目の前の壁にかけてある十字架を見つめている。12時すぎに食事をさせようとしたが受けつけない。 ベルナデットの死 神父が来て臨終の祈りをとなえると、後についてベルナデットもかすかな声で祈りをくり返す。手には自分の十字架を握りしめている。 2時すぎに1人のシスターが祈った。 「無垢の聖母さま。ベルナデットはあなたのみもとにまいります。慰めてやってください」 ベルナデットはつぶやいた。 「慰めは……いらない。……カと忍耐を…願って……ください」 目を大きく開いたベルナデットは、遠い彼方を夢見るような目つきで空間を凝視している。3時ごろ、彼女は激しい苦しみにおそわれた。3人のつきそいのシスターが涙をためながらのぞきこんで激励する。ベルナデットは左手でシスター・ナタリーの手を握って、ささやくように言った。 「私の祈りを手伝ってください」
これは聖母マリアへの感謝の祈りをささげるので、いっしょに祈ってくれという意味であることがナタリーにわかった。だが、これがベルナデットの最後のことばとなった。 もはや声も出せなくなった彼女は、水が飲みたいという合図をした。ナタリーが水をついだグラスをさし出すと、ベルナデットは右手をグラスにそえて、ほんの少し飲んでから、手を離し、胸にひもでくくられている十字架を両手で握りしめたまま頭をがっくりと落とし、そのまま息絶えた。1879年(明治11年)4月16日の午後3時すぎで、35歳であった。 遺体に奇跡が起きた! しかしこのあと、彼女の遺体に奇妙な現象が発生したのである。遺体は3日間聖堂に安置されたが、まったく硬直しないし、手足は生前のようにやわらかく、皮膚の色も変化せず、指先はバラ色で、まるで生きた人問のように輝いているのだ。 人びとは驚いた。「マリアさまのご加護だ!」 このうわさは広まって、大勢の人がひと目遺体を見ようとして押しかけたので、整理人が出る有様だった。 4月19日に盛大な葬儀が行われた。遺体は鉛と樫の木の二重棺に納められて、愛徳会のサンジルダール修道院の境内にあるサンジョフ7聖堂の地下墓地に葬られた。修道院のテラスと東広場の内外を埋めつくした数万の人びとは涙とともにベルナデットに別れを告げた。
一方、マッサビエユの洞窟における聖母マリアのまぼろしの出現は、物的証拠はないにしても、絶対にまちがいのない事実と認定した司教当局は、ベルナデットを聖列に加えようという運動を起こしはじめた。聖人の称号をつけようというわけである。 そこで、死後30年が経過した1909年2月22日になって、遺体の状態を検証するたぬに遺体の掘り出しが行われた。 立ち会ったのはヌベールの司教ガウシ僧正、教法官、尼僧院長マリー・ジョセフィーダ、検務官、医師のジェルダンとダビッド、石工のガピヨンとプーエ、それに大工のコンネとマーリである。 棺を開いた一同は驚きの声をあげた。そこには埋葬の姿そのままのベルナデットが横たわっていたのだ!やせた顔の肉づきは生前のままで白骨化していない。閉じた目もそのままで、いま永遠の眠りについたかのような女性の遺体が出てきたのである。腐敗臭もまったくない。両手は胸の上でやさしく組まれている。こんなことがあるのだろうか。まさにこれは奇跡以外のなにものでもない!
腐敗しない遺体の謎 さらに10年後、2度目の遺体検証が行われた。1913年8月13日にバチカンの法王ピオ10世が枢機卿会議の決定により、ベルナデットを聖列に加えることを決裁したからである。 このときの検証に立ち会った医師タロンとコムトの記録によると、ベルナデットの遺体は1回目に掘り出したときと変わっていなかったという。完全にミイラ化していたけれども、腐敗臭はなかったのである。 1923年(大正12年)11月18日に3回目の遺体検証が行われて、またも医師のタロンとコムトが立ち会った。コムト医師の記録は次のとおりである。 「私は横隔膜の一片と、その下にある肝臓を聖骨としてとり出したが、これらがみごとな状態に保もたれているのを確認した。また2個の膝蓋骨を除去したが、それには皮膚が粘着し、多くのぬめりのあるカルシウム物質がついていた。最後に腿の外側から左右の筋肉片を切りとったが、これらもまことに良好な状態に保たれていて、まったく腐敗していなかった」 コムト医師が顔と両手だけを残してほかの部分を包帯で包んだ。遺体を棺に納める前に顔と手の型をとり、これと生前の写真とを参考にして、パリのピエール・アマン社が薄いロウマスクを製作して、ミイラの上にかぶせた。顔が黒ずんでいるので、参観者に不快感を与えないようにしたのである。 彼女は聖人となった 1925年(大正14年)6月14日、ローマ法王ピオ11世はベルナデットを公式に聖列に加えた。以来、ベルナデットは"聖女"と呼ばれるようになった。そして遺体はサンジルダール修道院の礼拝堂のガラスケースの中に安置され、現在にいたっている。 その顔は薄いマスクにおおわれているとはいえ、最初に棺に入れられたときの瞑想と祈りの姿を示している。 ただ、参観者は顔に薄いロウマスタがかぶせてあることを知らないために、本物の皮膚と勘違いして驚異と感動にふるえる人、またははじめからただのロウ人形だと思う人とに分かれるようだ。しかしこのいずれも正しくない。マスクの下に本物のベルナデットのミイラ化した遺体が存在しているのだ。
第5章1部へ続く
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