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| ├ 写 真 |
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| ルールドの奇跡 久保田 八郎 | |
| 第4章1部 ベルナデットの死 |
| 一方、ゼンソクの持病があるベルナデットは、健康を概して病状が悪化し、1862年4月末には危険な状態になった。 |
ベルナデットに奇跡が 彼女が暮らしている病院はヌベールの修道会が経営する一種の老人ホームと子どもの養育院をいっしょにしたようなもので、世話をするのは修道女たちである。そして日々の生活はカトリックのきびしい宗教的規律のもとにすごされるのである。 しかし、ベルナデットは修道女ではない。洞窟で聖母のまぼろしを見たというだけで全国的に有名になったにすぎない。それがこうまで多くの人の来訪を受けてもてはやされるのはおもしろくない、というわけで、養育院長はベルナデットをねたんでいた。 そこで、彼女が傲慢(ごうまん)になってはいけないという口実のもとに、いろいろな機会に、他人のいる前で彼女をはずかしめたのである。これはベルナデットにとって苦しいことだった。 こうした精神的苦痛に加えてゼンソクの持病の苦しみが重なったのだから、生活はかならずしも楽しいものではなかった。 4月30日、彼女は悪質の肺炎になり、もはや絶望的となった。彼女は臨終と判断され、司祭が最後の聖体拝領をさせるために聖体(パン)を小さくちぎって洞窟の泉の水といっしょにべルナデットの口に入れた。 そのとき、突然彼女が叫んだ。「私、治ったわ!」 なんと彼女は急に呼吸がらくになり、熱もさがって、顔に生気がよみがえったのだ。その夜は主治医のバランシー医師を応接間で迎えて、にこやかに語り合うまでに回復した。 この奇跡的治癒はルールドで評判になり、いわゆる"ルールドの奇跡"は決定的なものとなった。しかし、ベルナデット自身に奇跡的な癒やしが発生したのは、残念ながちこのときだけである。 私は修道院に行きたい
この奇跡によりベルナデットの健康はいっとき回復したけれども、その後2年間、彼女はまたいろいろな病気で苦しんだ。とくに喀血や呼吸困難におちいることが多く、はたの見る目にも、いたいたしいほどだった。こうして病気のくり返しが彼女の短い人生のすべてであるかのようにさえ見えた。 ときどき、養育院のシスターたちは、ベルナデットの体調がよいときに病人の世詰をさせてみた。するとベルナデットは献身的に働くのである。特にきたない身なりの老人の世話をすることが好きで、ほかのシスターが顔をそむけていやがるような仕事でも喜んでひき受けた。そしてベルナデット自身も、病人の看護がこの世における自分の使命ではないかと考えるようになってきた。
当時のフランスは現代とちがって、医療施設がまったく近代化されておらず、公立の病院も少なかったので、カトリック修道院の中には病院や孤児院などが作られて、貧しい病人を救済していた。これはイエスの愛の精神にもとづくものである。 ベルナデットはしだいに修道院の生活にあこがれるようになってきた。修道院はたくさんあるけれども、どうせ入るならルールドの修道院の本部のあるヌペールの愛徳会修道院がよい。だいいちあそこへ行けば人目を避けることができる―。 ヌベールの修道院行きを決定 1863年9月27日に、ヌベールのフォルカード司教がルールドへ来て、彼女に修道院へ入ることをすすめた。この司教は若いころ、伝道に燃えて東洋の果てまで行っている。新しいもの、すぐれたものを見分ける目をもった偉い方だとベルナデットも聞かされていた。 「司教さまはむかし東洋へいらっしやったんでしょうか?」 「ああ、行ったよ。ジャポン(日本)という国のリユーキュー(沖縄)という島だ」 「どんなところですか?」 「気候は暑いが、とてもいいところだ。人びとは温和で、めずらしいものがたくさんある」 「そこの人たちはイエスさまの教えを信じているのですか?」 「いや、別の宗教だ。だからわたしが布教に行ったのだ。おまえも他人を助けようとするのなら、まず修道院へ入って修道女になる必要がある。いまのままでは人を助けることはむつかしいよ」 「でもわたしは何もできませんし、お金もありません」 たしかにベルナデットは、「何もできないじゃないの!」といって修道長からはずかしめられたことがたびたびあったし、本式に修道院へ入るにはかなりのお金を必要とすることも知っていた。 「おまえはニンジンの皮ぐらいはむけるだろう」ベルナデットは笑いだした。 「そんな簡単なことでしたら!」 「何でもいいんだ。どんな仕事でも一生懸命にやりさえすれば修道女になれる。お金の心配をする必要はない。よく考えておきなさい」 フォルカード司教が帰ったあと数ヶ月間、ベルナデットは考え続けた。そして「行ってみようかしら」と決意をかためたのは64年4月4日のことである。それまでにあちこちの宗派のちがう修道院から誘いの手がのびていたのだが、彼女はルールドへ来ているヌベールのシスターたちが有名人の彼女をスカウトしようとしない点が気にいっていた。
モメールでのつかのまの幸せ この年の秋に、小学校の先生をしていた従姉のジャンヌ・ベデールがルールドへやって来た。そしてベルナデットの病弱な体と訪問客相手の多忙な生活がかわいそうになり、モメールの自宅へしばらく逃避させることを考えた。 ベルナデットは大喜びして同行した。わずらわしいルールドの人目を避けて、この静かな田舎町で自由にすごすのは健康回復にもよいだろう。
だが、ここでもベルナデットは名士としてよく知られており、道を歩くと人々がぞろぞろとついてくる。 結局、あまり外出はしないで、ベデール家ですごす日が多かったけれども、元牢屋の不潔な部屋とはちがうし、うるさい修道長もいないので、ベルナデットは家族とともに終日はしゃぎまわっていた。 しかし何もせずにいたわけではない。自発的に地元の教会にたびたび行きロザリオの祈りを続けていた。その祈りのときの態度はすばらしいものだったとべデールは証言している。 はじめはここに2、3日いるつもりだったのに、ベルナデットは結局、1ヶ月半も滞在した。この期間が彼女の生涯でもっとも幸せな楽しい時期であったようだ。 愛する家族と別れて ルールドへ帰ってからまもない11月19日に、ヌベールの修道院の入会許可がきた。これもベルナデットには大きな喜びであった。しかし入会するまでにいろいろと複雑ないきさつがあったのと、またも病気になったり、65年の2月には弟のジュスタンが死んだりして、ヌベール行きは大幅に遅れてしまった。 やっと出発したのは1866年7月4日。このとき、ベルナデット22歳になっていた。 彼女は自分の持ち物のほとんどを友達や知人に贈ったあと、マッサビエユの洞窟へ最後のお別れに行った。 このとき彼女は泣きながら洞窟の岩壁にしがみついて、いつまでも離れようとはしなかったと伝えている資料が多い。しかし、実際は、長い祈りをささげたあと、淡々とした表情で帰ったらしい。もちろん内心では苦しかったのだろうが、それを表情にあらわさなかったのだ。このことは出発前の最後の夜にべルナデットと会った叔母のバジール・カステローが証言している。 翌4日、ルールドの駅に家族や親類が見送りに来た。数百名の町の人たちもつめかけた。そしてみんな泣いた。だがベルナデットは笑顔で別れを告げて、逆にみんなをなぐさめたのである。 生来陽気で現実主義者のベルナデットは、こんな場合にメソメナするような性格ではなかったのだが、それでも汽車が駅を出て、なつかしい大ピレネーの山々やルールドの町が遠ざかるのを車窓からながめながら、さすがに感慨深そうだった。
第4章2部へ続く |
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