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  ルールドの奇跡 久保田 八郎
 

第1章3部 スピルー家の信仰心

だが、翌年の56年なって、スビルー家は貧困の頂点に達し、家賃が払えずに借りていた家から追い出されてしまった。困りはてた末、フランソワのいとこにあたるアンドレ・サジューという人が所有していた、もとは牢屋であった建物の一室へ移ることにした。

この部屋はいまも残っているが、日本流にいえば8畳ぐらいの広さで、暗いじめじめした不潔な場所であり、とうてい人間の住めるようなところではない。ここに住んでいた当時のスピルー家は文字どおり貧しさの極の中にあった。

あるとき末弟のジュスタンは空腹のあまり教会へ行って、ロウソタから垂れたロウをひろって食べていたという。それほどに食べ物がなかったのである。フランソワによい仕事がみつからなかったのはそれなりの理由がある。彼はポリの水車小屋をやっていたころ、ひき石を金づちでたたいて、その破片が左目にあたりそれがもとで視力を失ったのだ。しかし子どもたちにはこのことをかくしていた。

もう1つの欠点は字が読めないことだった。片目で文盲ときてはよい仕事もない。しかし人びとは彼を誤解して、怠け者、酒飲みとののしる。だがスピルーはまったく感情をあらわにすることはなく、いつもやさしい顔で妻や子どもたちを愛し、妻のルイーズも心から夫を愛して、貧しさの中でも夫婦の仲はきわめて円満だったと、当時の彼らを知る人びとは証言している。

とりわけベルナデットは父親を愛し、尊敬していた。というのは、信仰深い夫婦には毎晩標準フランス語で祈りのことばをとなえる習慣があり、幼時からベルナデットは家庭の敬度な宗教的ふん囲気を誇りにしていたからである。こうした家庭に育てられたことがベルナデットの心を純粋に保つ要因になったのかもしれない。

■公教要理
キリスト教の教義を、質疑応答の形であらわした書で、信仰生活のすみずみにわたる取り決めを示している。とくにカトリック教会において用いられるものをいう。はじめて公教要理が編さんされたのは1530年のことであるが、今日、もっともよく知られているのは1566年に刊行された『ロ-マ公教要理』である。一般に公教要理は、信すべきこと(定理編)、守るべきこと(倫理編)、恩寵をこうむる道(定理、倫理の両編にわたる)の3部門からなる。これは必ずしも教授を目的としたものではなく、カトリックの教理の総括をめざしたものであった。 プロテスタントにも、カトリック公教要理と似た、マルチン・ルターが編さんした信仰問答書がある。それには、使徒信条、十戒、主の祈り、聖礼典など、福音主義の信仰が解説されている。 なお現在は、多くの公教要理を改訂して、全世界に共通する(世界公教要理)の制定に向けて努力がすすめられつつある。

バルトレスで牧童になる

バルトレスの羊小屋
▲ベルナデットが羊たちをつれてかよったバルトレスの羊小屋。いまも昔のままに残っている。

1857年の9月になって、ベルナデットはバルトレスへ働きに出た。これには理由がある。じっは彼女が生まれて1年もたたぬ44年の11月、母親のルイーズが事故で胸にヤケドをして、ベルナデットに乳を飲ませることができなくなったのである。このとき、ルイーズの姉であるベルナール伯母がある情報をもたらした。それは、彼女の知り合いのマリー・ラギューという婦人がルールドから4キロ離れたバルトレスという村に住んでおり、ちょうど生まれたばかりの男の子を亡くしたばかりで母乳があまってしようがないので、その人にべルナデットをあずけたらどうかというものだった。

そこでフランソワとルイーズは1ヶ月5フランの契約でおさないベルナデットをあずけたのである。当時はまだ経済的に余裕があったので、他人に養育を頼むことができたのだ。こうしてベルナデットはマリー・ラギューを乳母として2年数ヶ月をすごした。この間マリーはベルナデットを実子のようにかわいがったので、ベルナデットも成長してから第2の母としての親しさを感じていた。

▲13歳から14歳にかけてすごしたマリー・ラギューの家
▲13歳から14歳にかけてすごしたマリー・ラギューの家

それに学校へ行かない彼女は、なんといってもカトリックの公教要理の勉強がしたくてたまらなかった。強大なカトリック信仰の国フランスでは、当時子どもは公教要理を勉強し、満7歳になったら初聖体を拝領するならわしになっている。ベルナデットも早く拝領して一人前になりたいので、公教要理の勉強もさせてくれるというマリー乳母のことばを信じて、57年13歳の9月から、またバルトレスの元乳母の所へ住みこみで身をよせたのである。

しかし、マリー乳母は昔のままではなかった。少女に成長したベルナデットをこき使う。家事の手伝いだけではなく、多くの羊をつれて牧場へ行かねばならない。食べる物もよくなくて、ベルナデットの体調は悪くなった。

なによりもつらかったのは、公教要理の勉強をさせるというのに、マリーはまったく教えてくれないことだった。

だがベルナデットは不平を言わず、従順そのものの生活を続けた。木曜日にはバルトレスの 教会の神父さまについて公教要理の勉強ができる約束だったのに、この日もベルナデットは10数頭の羊をつれて、数キロ離れた山の上の草原へやらされる。彼女がかよった坂道と羊小屋はいまも昔のままに残っているが、13歳の少女にとってはかなりの大仕事だったことだろう。

さすがにマリーも気がひけて、そのうち夜になると公教要理の本を持ち出して教えるように なったけれども、早口のフランス語でまくしたてるので、文字の読めないベルナデットにはよくわからない。ついにマリーは怒りだして、おまえはなんというバカな子なの、と口ぎたなくののしるのだがベルナデットは何も言わず黙ってうなだれているだけだった。

ベルナデッットが内心で苦しみながら徹底して従順で穏和な性格を示していたことは、当時の友だちであったジャンヌ・ベデールが証言している。

■聖体拝領

カトリック教会のミサにおいて、『聖書』のことばにもとづいて、パンをキリストの体、ブドウ洒をキリストの血として飲食する儀式をいう。イエスは「最後の晩餐」において、パンを「わたしの体」、ブドウ洒を「わたしの血による新しき契約」と呼んだ。つまり、パンとブドウ洒を食べ、飲むことによって、十字架で犠牲となったキリストの苦しみを分かちあうのである。

聖体拝領はキリスト教において、とくに重んぜられてはいるが、マヤやアステカなどの古代宗教にも、また現代の未開社会の宗教にも類似の儀式は多く見られる。そのなかには食人とかかわる行為もある。

平凡な娘ベルナデット

だがベルナデットが一般の子どもよりも特別に信仰心が厚いとか、神秘的な性質をもっていたという事実はない。ふつうの子どもと異なることはなく、ロザリオを手にしている姿も友だちは見たことがなかった。ときには畑で小さな祭壇を作ったりするけれども、これは当時の子どもたちがやっていた遊びである。 

しかし、カトリック信仰が生活の最重要の要素となっていた当時のフランスでは、日常の動作のすぺてにキリスト教の影響があらわれていた。だから後にベルナデットは安物のロザリオを2サンチームで買って、いつもそれをポケットに入れていた。ときどきこれをとり出して繰りながら、意味のよくわからぬ標準フランス語の祈りのことばをとなえていた。うろ覚えのことばである。昔の日本で、小学校の児童のすぺてが、意味不明のままに教育勅語を暗誦させられたようなものである。

こういうわけで、ベルナデットに特殊な超能力があったわけではないし、頭のよい娘だというわけでもない。ただ抜群に性質がおだやかで、明るくて、だれにも親切であったという特長があったにすぎない。しかし、この特質が後になって大きな力を発揮するのだ。

学校へ通いはじめる

昔乳母だったマリ-はしだいにべルナデットにつらくあたるようになった。毎日曜日には休暇をもらってルールドの牢屋を改造した自宅へ帰っていたベルナデットは、58年の1月17日の日曜日にも、おみやげにわずかなジャガイモをかかえて帰ってきた。そして、バルトレスへは2度と行かないと両親に告げた。 こうして彼女は、ふたたび日光のあたらない暗い牢屋の自宅に住むようになったのである。

しかし今度は以前とちがって彼女の目に希望の光が輝いた。

なぜなら、ルールドで神父が子どもの初聖体の準備をしていると聞いたので、今度こそは公教要理を勉強して拝領したいと思い、そのことをかねてから両親に頼んでいたところ、両親もこころよく受け入れて、学校へ行かせることにしたからである。

「初聖体が拝領できる!学校でしっかり勉強しよう!」

ベルナデットの胸は向学心に燃えて、牢屋の生活にも励みが出てきた。14歳とはいえ小柄なので12歳ぐらいにしか見えない彼女は率先して家事に打ちこんだ。そして歴史的な2月11日となる―。

■サンチーム ■教育勅語

フランスのお金の単位。100サンチームで1フラン(約40円)にあたる。

天皇制国家の精神的基礎を固めるために、明治23年(1890年)に発布された教育に関する手本を示した書。その基本精神は、忠君愛国主義、封建的な道徳観、男尊女卑にある。

ファチマの奇跡

聖母マリアの出現は、紀元600年ごろから現在にいたるまで、世界各地で数多く起こっている。なかでももっとも有名なのが、「ファチマの奇跡」だ。

▲ コーヴァ・ダ・イリアでお祈りをする(左より)フランシスコ、ルシア、ジャシンタの貴重な写真

1911年5月13日、ポルトガルの小さな寒村ファチマに住む3人の子どもが、近くのくぼ地で白い衣服を着た美しい少女のような聖母と出会った。ふしぎな光に包まれた聖母はそれから6ヶ月の間、毎月13日の昼に子どもたちの前に現れた。だが、聖母の姿は子どもたちにしか見えなかったので、ベルナデットと同様、3人の子どもは郡当局からさまざまな迫害を受けたのである。

しかし、約束の13日がくるたびに、どこからともなく白い雲が現れて子どもたちを包んだり、光り輝く銀白色の物体が空から急降下してヒイラギの木の下にとどまるのを見て、人びとはしだいに聖母の出現を信じるようになった。

そして10月13日、どしゃぶりの雨の中を一万人もの群集が聖母の現れるくぼ地の周囲に集まった。熱心な祈りをささげる信者たちにまじって、∃−ロッパ各地からやってきた新聞記者や学者、聖職者たちの姿も見られた。昼すぎ、またしても小さな白い雲が子ともたちの周囲にわき出て、ゆっくりと空中高く上昇していった。と同時に激しく降っていた雨がピタリとやみ、空をおおっていた雨雲が割れて銀色に輝く一個の光球が現れた。

それは急速に回転しながら、無数の光線を放射しはじめた。光線は黄、赤、青、紫とさまざまに色を変え、7万の群集に降りそそいで、大地にあふれた。「奇跡だ!奇跡が起こったんだ」という叫び声があちこちからあがり、人びとの熱狂と興奮の中で一連の「ファチマの奇跡」は幕を閉じた。

"ファチマの聖母"は3回目の会見のとき、子どもたちに人間の未来に関する3つの秘密を告げたといわれる。第一の秘密は戦火に苦しむ人間の姿を、第二の秘密は第二次世界大戦を、それぞれ予言したものと解釈されている。

問題は、第三の秘密である。この内容は今も口−マ法王庁が公開をこばんでいるもので、口−マ法王パウ口6世があまりの内容に失神したというエピソードも伝えられているものである。

1952年1月3日、イタリアに住むテレサ・テスコという女性の前に聖母マリアが出現した。マリアは言う。

「私はファチマに現れ、世界は破滅に向かっていると告げた。しかしだれも私の言うことに耳を傾けようとはしない。このままでは世界はすさまじい炎に焼かれ、海の水は沸きあがり、無数の人間が死ぬでしょう」

これが第三の予言の一部を伝えるものではないだろうか。人類を破滅から救うため、聖母マリアは出現し、神の許しを願っている。だが人類はその声をいまだに聞き入れていないのでは・・・。

第2章1部へ続く

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