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  神々の戦車 エーリッヒ・フォン・デニケン

第5章(3) 天空から来る火の戦車    UFOと宇宙 No.3 より 
 

”神々"とは?

聖書の神性さが障壁

古代オリエント探求の多くの機会は聖書の不可侵性と神聖さによりつぶされた。このタブーの前で人々はあえて疑惑を大声で発することもしなかった。表面上はかなり精通しているように見える十九世紀や二十世紀の学者でさえも、一千年来の誤りに満ちた心という手かせで縛られていた。というのは本筋にもどろうとすればどうしても聖書の物語のあちこちの部分に疑惑が生じることになるからである。

しかもきわめて敬けんなクリスチャンでも、旧約聖書に述べられている出来事の多くが、実際には良き偉大な普遍的な神の性格と一致しないことを認めていたにちがいない。聖書の宗教的なドグマを手つかずのままにしておきたい人こそ、古代人を実際に教育したのはだれか、自治生活の最初のルールを伝えたのはだれか、衛生上の最初の法則を教えたのはだれか、そして堕落した種族を絶滅させたのはだれかなどを明らかにすることに関心をもつべきである。

われわれがこんなふうに考え、こんなふうに疑問を起こすからといって、われわれが非宗教的だというわけではない。私自身は、過去に関する右の最後の疑問に対して真実の納得のゆく解答が与えられたとき、よい名前が見つからないばかりに私が"神"と呼んでいる"何か"が永久に残るだろうと確信する。

しかし想像のできない神があちこちへ動くのに車輪や翼のある乗物を必要とし、しかもマスクをはずさなかったという仮説は、証拠によって裏づけされないかぎり、荒っぽい憶測の域を出ない。神は賢明で、姿をあらわして人間たちを謙虚にさせる状態をわれわれは想像することはできないという神学者の答は、われわれの疑問を避けるものであり、その意味で満足できないものである。

人々も新しい事実に対しては目を閉じたがっている。しかし未来は日一日とわれわれの過去をかみとってゆく。近い将来、初めて人間が火星に着陸するだろう。もしそこに長く打ち捨てられた太古の建築物がただの一つでもあれば、そして大昔の知性体の存在を示す物が一つでもあれば、こうした発見物はわれわれの宗教の根底をゆさぶり、われわれの過去を混乱させることになるだろう。この種のたった一つの発見でも人類の歴史に最大の変革をもたらすはずである。

未来との避けられない出会いを考えてみると、過去を思い浮かべる場合には新しい想像に富んだアイデアを応用することが賢明ではないだろうか。あらゆる宗教はそれ自体の神の概念をもっている。この概念の枠内で考え信ずることには限界がある。一方、宇宙時代とともに知的な審判の日が近づいてくる。神学という暗雲は消滅し、霧の破片のように散ってしまうだろう。宇宙空間へ勇敢に踏み出すにつれてわれわれはそこに二百万の神、二万の宗派、十の大宗教があるのではなく、ただ一つの神だけがあることを認めねばならなくなるだろう。

だが人類にとってユートピアの過去があったという仮説を守り続けることにしようではないか。これは今までのところ次のような情景である。

はかり知れない遠い大昔に一機の未知の宇宙船がこの地球を発見した。その乗組員はこの惑星が知的生命の発達に必要なすべての物をもっていることがわかった。明らかに当時の"人間"はホモ・サピエンス(知的人類)ではなく、かなりちがったものだった。宇宙人たちはこの種族の女たちに人工的に受精させて、深い眠りにおちいらせた---と古代の伝説でいっている---あと、地球を出発した。数千年後に宇宙人たちはまたやってきて、その人類があちこちにちらばっているのを発見した。彼らはこの繁殖実験を数度くり返して、ついに社会生活の規則を守れるほどの知的な生物をつくり出した。しかしその時代の人々はまだ野蛮だった。

退化して動物とまじわるかもしれないという危険があったので、宇宙人たちはうまくゆかなかった種族を絶滅させたか、または他の大陸で住まわせるためによそへつれて行った。こうして最初の共同社会と技術が生まれたのである。岩壁や洞くつの壁に絵が描かれ、土器が発明され、最初の建築も試みられた。

この最初の人類は宇宙人に対して非常な尊敬感をもっていた。宇宙人がまったく未知の場所からやってきて、また帰って行くので、蛮人たちには"神々"に見えたのである。何かわからない理由によって、"神々"は自分たちの知能を伝えることに興味をもっていた。彼らは自分たちがタネつけした種族の世話をやき、絶滅しないように保護し、悪徳にそまらないようにした。またその社会が健全に発達するようにしてやったし、奇形人間を消して、残った者が発展の可能性のある社会にとって基本的に必要な物が得られるように面倒をみてやった。

明らかにこのような推測にはまだ落とし穴がいっぱいある。しかし将来はこの落とし穴の多くが埋められるだろう。この記事は多くの憶測から成り立った仮説を打ち出したものでみる。

したがって仮説というものは"真実"である必要はない。だが私はこの仮説を、タブーという隠れ家の中で多くの宗教を安全に生かしているもろもろの理論とくらべるとき、この仮説に対してわずかながらも可能性を与えたいと思う。

真理とは何か

"真理"ということについて二、三述べておくのもわるくはないだろう。ある宗教を信仰して全然他人から攻撃されたことのない人は、自分が"真理"なるものをもっていると確信している。これはクリスチャンばかりでなく、大なり小なり他の宗教団体の信者にもあてはまる。

▲1965年6月9日、ジェミニ4号のホワイト宇宙飛行士による宇宙遊泳。©NASA

神知学者、神学者、哲学者は自分たちの教え、先生の教えなどについて考えていて、"真理"を発見したと確信している。当然あらゆる宗教にはそれ自体の歴史、神によってなされた約束、神との契約や予言者、賢明な教師などがいる。"真理"の証明は常に自分の宗教の中心から出てきて外へひろがるのだ。その結果われわれが子供のときから受け入れるようにと教え込まれた片寄った考え方をもつようになる。それにもかかわらず、各世代は"真理"をもっていると確信しながら生きてきたし、今も生きているのである。

もう少し控え目に、人間は"真理″を鴇っことができないのだということにしよう。せいぜいわれわれはそれを信じ得るだけだとする。真理を探し求めている人は自分自身の宗教の保護のもとにその範囲内で求めることはできないし、そうするべきでもないのだ。もしそんなことをすれば、最高の完全さを要する事柄に対して"不誠実"が後見人となるではないか。結局人生の目的は何だろう? 

"真理"を信ずることなのか、それともそれを探し求めることなのか? 旧約聖書の事実がメソポタミアで考古学的に証明されたとしても、この確証された事実はある宗教の証明とはならない。かりに古代の都市や村や井戸、碑文などが特定の地域で掘り出されると、その発見物はそこに住んでいた人々の歴史が事実であることを示すが、その住民の神が唯一の神であり、宇宙旅行者ではなかったという証明をしているのではないのだ。

今日、世界中で行なわれる発掘はいろいろな伝説と合致していることを示している。だからといって、ペルーの発掘の結果、インカ以前の文化の神をホンモノの神と認めるクリスチャンがどこの世界にいるだろう。私がただ言いたいのは、神話にせよ実際の体験にせよ、すべては一民族の歴史をつくり上げているということである。それだけのことだが、それでも十分だと私は言いたい。

したがってほんとうに真実を探し求めようとする人は、自分の考え方や信念に合わないからといって、新しい大胆な、しかもまだ証明されない見解を無視してはいけないのである。百年前には宇宙旅行の問題が起こってこなかったのだから、われわれの父や祖父たちは、先祖が宇宙からの訪問を受けたかどうかの考えを合理的に起こすことはできなかっただろう。ここでひとつ現代の文明が水爆戦で完全に破壊されたという恐ろしい考えをもってみることにしよう。だが工合のわるいことに、これはあり得ないことではないのだ。五千年後に考古学者たちはニューヨークの自由の女神の破片を発見するかもしれない。われわれの現在の考え方にしたがえば、彼らは何か未知の神---多分、火の神(たいまつをもっているため)か太陽神(女神像の頭部のまわりに放射線が出ているため)の像を見つけたと主張するだろう。それがまったく単なる石器物で自由の像だったとは、よもや思わないだろう。

ドグマでもって過去に通ずる道をふさぐことはもはや不可能である。われわれが真実なるもののきびしい探求にとりかかろうとするのなら、今まで考えてきた線をはずれて、かつては真実と思っていた事をまず疑い始めるような勇気をふるい起こさねばならない。新しい考え方がバカげているといって目を閉じるわけにはゆかない。

とにかく月面着陸というアイデアは五十年前はバカげていたのだ。

(第6章は省略)

>>第7章(1)へ続く

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