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新アダムスキー全集

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  神々の戦車 エーリッヒ・フォン・デニケン

第3章(4) 説明のつかない物の満ちた、ありそうもない世界
 

サハラ砂漠のタシリ壁画にも宇宙服姿の人間がいる・・・・そしてアンテナをつけたヘルメットも・・・・

不可能な事はあり得ない

新しいアイデアの世界が始まろうとするときはいつも狭量な精神が特徴となるらしい。しかし二十一世紀の入口においては研究者はファンタスティックと思われる実在物に対して準備しなければならない。長いあいだ神聖で冒すことはできないと考えられていながらも新しい知識の側から疑問視されていた法則や知識を再調査しなければならない。この新しい知的な大運動を保守主義者がこきおろしても、真実の名のもとに反対者を押しのけて新しい世界が征服されねばならない。

二十年前に科学界で人工衛星の問題について話した人は、一種のアカデミツタな自殺をとげていたのである。今日では人工による衛星が太陽のまわりをまわっている。それらは火星を撮影したり月や金星に着陸したりして、積み込まれたカメラによって未知の風景のすばらしい写責を地球へ送り返している。一九五八年の春にこうした写真が火星から地球へ電送されたときは、信じられないほどに微弱な電力が用いられた。

▲イタリア北部、バルカモニカで発見された古代の壁画。異様な服とヘルメットを着用している。

しかしもはや信じられない物は存在しない。"不可能"という言葉は現代の科学者にとって文字通りあり得ないものになってしまった。今日このことを認めない人は明日は真実によって押しつぶされるだろう。だから数千年前に遠い惑星から人間が地球へきたという説に忠実に従おうではないか。

我々の純粋かつ原始的な祖先は、宇宙飛行人のすぐれた技術から何を作ってよいかを知らなかった。彼らは宇宙飛行人を他の星からきた"神々"として礼拝した。そして宇宙飛行人は原始人たちが自分たちを神としてあがめるのを忍耐強く認めるよりほかはなかった。これは一つの尊敬感として飛行人たちもあらかじめわかっていたことだろう。

この地球には機関銃を悪魔の武器とみなすような原始人の住んでいる所が今でもある。こんな地域ではジェット機が彼らにとって天使の乗物と見えるのも当然である。ラジオから流れ出る声は神の声と思われるかもしれない。この最後の原始人たちも我々はあたりまえのことと思っている科学技術の発達の印象を彼らの賢人たちを通じて代々伝えているのである。彼らは天空からやってくる聖なる人々の姿やすばらしい乗物を今でも山腹や洞窟の壁に描いている。こんなふうにしてこの未開人たちは我々が今日探し求めている物を我々にかわって保存してきたのである。

古代の壁画の意味するもの

コーヒスタン、フランス、北アメリカ、南ローデシア、サハラ砂漠、ペルー、チリなどに残っている洞窟の壁画はすべて我々の説に役立っている。フランスの学者であるアンリ・ロートはサハラのタシリで、無数の動物や人間の絵のある数百の壁を発見したが、この中には短い優美なコートを着た人間の姿もまざっている。この人間たちは棒をもっているが、それにはわけのわからぬ箱がついている。

▲タッシリの大隔壁。

動物の絵の隣りに一種の潜水服らしい物を着た人間の絵があるのに我々は驚かされた。棒大な神マルス---とロートは名づけているが---はもと十八フィート以上も高い位置に描かれていた。

しかし我々にその絵画の遺産を残してくれた"未開人"はそれほど原始的ではなかった。彼らは明らかにそのような均衡を保って描けるように足場を用いたのである。なぜならこの数千年間はこの洞窟の地面の高さに変化がなかったからだ。筆者が想像をたくましくしないで受けた印象では、偉大な神マルスは宇宙服または潜水服のようなものを着て描かれているのである。その強そうな両肩の上に一種の接合部によって胴体とつながっているヘルメットがのっかっている。ヘルメットにはいろいろな裂け目があってここに口や鼻などがあったろうと思われる。人はこれを偶然の結果だとか先史時代の"画家"の絵画的想像だと思うかもしれない。

しかしタシリにもこれと同じ道具をつけた不格好な像がいくつかあるし、アメリカのカリフォルニアのテュレア地域に岩壁に描かれた絵でこれと酷似したのがある。

私は寛大でありたいと思う。だからこの原始的な画家たちは未熟であり、かなりぞんざいな手法で絵を描いたと思いたい。だがそれにしてもこの同じ太古の穴居人が一体どうして動物や普通の人間を完全に描くことができたのだろう。この"画家"たちは自分が実際に見た物を完ぺきに描く能力をもっていたと考える方が私にはもっとスジが通っているように思われる。

カリフォルニアのアイニョー郡には、洞窟の壁画に幾何模様が見られるが---想像力をたくましくしないで見ても---、これは二つのフチのついた計算尺とみられるのである。考古学者はこの絵は神々の姿を示すものだという。

アンテナを着けたヘルメット

イランのシャークでは陶器に種族不明の一匹の動物が描かれていて、その頭には巨大な直立したツノがはえている。こんな物があっていけないという理由はない。両方のツノは左右に五つの螺旋(らせん)形の物を示している。大きな磁器の絶縁体のある二本の棒を想像してみると、その絵が大体にそんな物になる。これについては考古学者は何というだろう。まったく簡単に「それは神の姿をあらわしたんだ」というかもしれない。

▲タッシリの壁画。角がはえた人。

神々は非常な価値をもつのだ。人は未知なもの、超自然なものに言及することによってわけのわからぬ物を説明しようとする。論証のできないこの世界では人々はおだやかに暮らすことができるのだ。発見される小立像、組み立てられる工芸品、破片を集めて復元される彫像など、これらはただちに古代の宗教に関係づけられてしまうのである。しかし一つの物が現在の宗教のどれにもあてはまらない場合は、別な狂気じみた昔の宗教がすぐに魔法のように引き出されてくる---帽子からウサギを取り出すようにだ! 

しかしタシリ、アメリカ、フランスなどの壁画が実際に原始人の見た物を再現しているとしたらどうだろう。例のツノの螺旋(らせん)形が本当は原始人が見知らぬ神々の着けていたアンテナを描いたものとすれば、我々は何というべきか。存在するはずのない物が実際に存在するということはあり得ないことだろうか。壁画を製作するほどに熟練していた"未開人"は、それほど未開ではなかったはずである。

南アフリカのブランデンバーグのホワイトレディーの壁画はまるで二十世紀の絵画のようである。彼女はそでの短いプルオーバー、ぴったりと身についたズボン、手袋、ガーター、スリッパなどを着けている。この淑女は一人だけではない。そのうしろには奇妙なデコボコの棒を手にしたやせた男が立っていて、画境とともにきわめて複雑なヘルメットをかぶっている。これならばためらいなしに現代の絵画とみなされるだろう。

アンテナ付きの壁画は各地にある

スエーデンとノルウェーの洞窟の壁画に描かれている神々は一様に不可解な頭をしている。考古学者はこれを動物の頭だといっている。しかし人間が殺して食べる"神"をあがめるとはバカらしいではないか。我々は翼のはえた船の絵をしばしば見るし、典型的なアンテナの絵をもっと多く見かけるのである。

▲タッシリの岩肌に描かれた『白い巨人』といわれる像。

大きな服を着た人間の姿はイクリヤのパルカモニカにもあるし、こまったことにはその絵も頭にツノがはえているのだ。イタリヤの穴居人が北米やスエーデン、サハラやスペインなどのあいだを往復してあちこちで絵画の才能を発揮したと私はいうつもりはない。しかしむつかしい疑問が宙に浮いてくる---なぜこの原始人たちは頭にアンテナを着けた大きな服を着た人の姿をそれぞれ別個に描いたのかということだ。

こんな絵が世界で一カ所だけにあるにすぎないものなら、この不可解な物についてよけいなことをいいたくないが、実際にはいたる所に見られるのだ。

我々が現代の目をもって過去を見、その中にあるギャップをうめるために現在の科学技術時代のファンタジーを応用するとたんに、暗黒を包んでいたベールは上がり始めるのである。次章では古代の聖なる書物を調べて、それらが私の説を裏書きするのを示すことにしよう。

>>第4章(1)へ続く

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